受験生みたいな生き方を続けていたら限界がきてしまった

 

先週、ブログでレポートが手につかないと書いていたが、今も全く状況は変わらない。この間の進捗はゼロだ。一体どうしてこんなことになったんだろう。

 

その原因について考えるには、浪人時代まで遡らないといけない。受験勉強中の思考は今の僕に大きな影響を与えているからだ。受験勉強は全身全霊をかけた戦いだ。どうやって勝ち抜くか真剣に考える分、その時考えたことが将来に与える影響は当然大きくなる。

 

さて、当時、僕が苦労して身につけた「受験適応的生き方」とはなんだろうか。その特徴をここでまとめておく。

 

①常に人生は死と隣り合わせ
②人生を無期限の苦しみと捉える
③常に課題と向き合わなくてはいけない
④常に他者に対して責務を負っている

 

①について

当時の僕は希死念慮が強かったから、受験に成功するか死かという世界で生きてきた。そうでもしないと勉強に迎えなかったのだろう。ところが、受験時代でやめておけばいいのに、大学入学後も、課題達成か死か、という二択しか許されない人生観をそのまま持ってきてしまった。「死ぬ気でやれよ。死なないから。」という有名な言葉があるが、別に死ぬ気でやったところで、ものすごい努力ができるわけではない。僕の場合、残ったのは、ろくに本も読めずレポートも書けない磨り減ったメンタルだけだった。

 

②について
ところで、受験勉強の苦しみには大いに無期限性がある。どこまで勉強すれば合格できるか不確定で、受験生は常にレベルアップすることを迫られるからだ。「ここまで勉強すれば今日は十分」といった有限性は自分で恣意的に決めるしかない。恣意的に制限を決める作業がとにかく下手な僕にとって、受験勉強は無期限の苦しみに他ならなかった。無期限性を認めた上で受験勉強を戦い抜くために、「受験適応的生き方」が必要だったのだ。ところが僕は、大学生活にも、将来独り立ちするという目的のために、無期限の苦しみの感覚を持ってきてしまった。将来のためには常に有意義なことをしなければならず、無意味なことをしてはいけないという強い観念に縛られている。ネットサーフィンやゲームをしたいという欲望を常に抑えることはできない。そのために度々堰を切ったようにネットサーフィンやゲームに興じることがあり、その時間は増える一方だ。無意味な行為をしている自分というのを認めることができないので、そうした行為をすればするほど、希死念慮がますます酷くなっていく。

 

③について
受験期は学力向上という課題があり、それに取り組むことが常に必要とされていた。大学入学後も、やはりアカデミックな知識の学習が必要とされ、受験期と状況的にはあまり変わらなかった。周りの学生が熱心に勉強を続ける中で、レースについて行けなくなった僕は、すっかり置いていかれてしまった。もうどうやっても追いつくことができないという諦念に支配され、自分を責め続ける日々。いつになったらこの苦しみから解放されるのだろうか。

 

④について
僕は親の存在を支えに受験を戦った。他者性の重要性に受験を通して気づいたのだ。他者のためという理由があると、義務を頑張ってこなすことができる。だから入学以降は、何か課題が与えられるたびに他者のためという目的を無理やり作り出した。学力の向上は早い自立を望むのは親のため、退会者の会を立ち上げたのも人のためになる活動をしたかったからという理由が大きい。だが、他者への貢献で自らの価値を保障しようとしてしまうと、いざ思うようにいかなかった時に自らの命に価値がないと強く感じるようになってしまう。貢献か死かという二択しか許されていないのだ。

 

 

「受験適応的生き方」と名付けてここまで僕の生き方を解説してきたが、どこがまずかったのだろうか。みんなが働くなら勉強するなりしているのは、究極的には生きるためであるし、有意義なことをするに越したことはない。課題から逃げてはそれこそ生きていけないし、他者に対して責任があるのは社会が責任関係で成り立っている以上当然のことだろう。

 

ポイントは、「常に」という言葉である。

 

(参考
①常に人生は死と隣り合わせ
②人生を無期限の苦しみと捉える
③常に課題と向き合わなくてはいけない
④常に他者に対して責務を負っている)

 

課題や他者に対する責務と向き合うことにはかなりのエネルギーが必要だ。常にそんなことをやっていては、どこかで動けなくなるのも当然である。この地獄から逃れるためには、責務に向き合う時間と向き合わない時間で分けなければいけない。

 

責務からの解放とはどんな状態か。それは、無意味で、無為で、戦わなくてよくて、誰かのために何かをする必要のない、そんな時間だ。あるところでは戦わなければならないのは確かだが、そのためには、休むことのできる場所を確保する必要がある。どうすればいいか。

 

テクニカルな解決策だが、戦う時間をあらかじめ決めておくのが一番だろう。この時間からこの時間までは、勉強するというのをしっかり決めれば、無期限性は消失する。これは、受験期にはできなかったことでなかなか難しい。真剣さと適当さ、義務と遊び、これら両極にあるものをはっきりと分けてしまうことが怖い。だが、戦い続けるためにはもう仕方がないのだと思う。修正しながら自分にあったスケジュールの管理法を見つけていきたい。

 

熊野寮に移りたい


ここ2、3日レポートに全く手がつかない。やろうとは思っているのだが、どうしても進まなくて、ただただ辛い。この文章もレポートを放棄して書いている。単位は全然大丈夫ではない。

 


今年度はずっと鬱*1に苦しめられていた。5月なんてあまりにもきつすぎて2週間ほど実家に帰ったくらいだ。その後も慢性的な鬱状態から抜け出せず、単位はボロボロ、留年の可能性が日に日に高くなってきている。

 


医学上でも僕の経験上でも、鬱は環境に大きな原因があることが多い。今と同じような鬱に苦しんでいた高校時代、敵意を向けてくるような人がいるクラスから、そうではないクラスに変わった時に嘘のように鬱が消えていったのを思い出す。高3、1浪の時は比較的おさまっていた鬱が再び酷くなったのは、大学に受かって京都に来てからだ。それ以来、正体の見えないものにずっと苦しめられている。一体僕は、何でこんなに辛いんだろう。

 


今回は、高校時代と違って、明らかに人間関係が主な原因ではない。退会者の会を立ち上げて以降('18年11月〜)は、気の合う人たちに囲まれて、対人関係面では幸せな大学生活を送ってきたつもりだ。それなら大学の授業は?それも一因ではあるだろうが、変えようがないことなのでどうしようもない。それに、問題なのは義務や課題がこなせない状態に陥っていることであって、授業に付いていけないという話をしているのではない。

 

では、何が僕を苦しめているのか。

 


僕の出した答えは、「一人暮らし」という状況だ。これは僕の主観だが、自らの行為は他者との関係と重なることで、初めて意味づけが可能になる。関係を断たれてしまった状態で行為することは、空虚なものを掴んでいるようなものだ。一人暮らしは、京都に行くまで夢想していたような、自由に何でもできるような場所なんかでは決してなかった。行為の意味が奪われることで、同時にその楽しさも奪われてしまう場所だったのである。

 


例えば、僕は受験期によくアニメを見ていたが、いつも、アニメを見ないで勉強しろと親に言われないか怖れていた。今日はたくさん見たからこれくらいにしよう、と自ら制限をかけていたのを思い出す。当時は家族の目が煩わしく、一人暮らしに憧れていた。


ところが、京都で一人暮らしを始めると、以前感じていた楽しさが一気に薄らいでしまったのである。アニメや漫画を見てもすぐ退屈になり、勉強もせず、スマホツイッターまとめサイトばかりを見ている日々。次第に虚無感が募って精神がすぐに限界に達する。


その果てに、嫌になって帰省することがたびたびあった。長い休みの時はすぐに帰ったものだ。そして、実家でアニメや漫画を見るとこれが本当に面白かったりする。嘘だと思うかもしれないが、同じ作品でも感じが全然違う。

 

家族の目は、アニメを見る上で不自由さを生むが、その制限の中でアニメを見るのが楽しい。家族に見られていることがいい意味で緊張感を生んでいるのである。人がいる中で見る、人の不在の中で見る、どちらの場合でも、見るという行為に人との関係が重なってきていて、きっとそれが、僕の感覚になんらかの影響を与えているに違いない。

 


帰省中と同じことを僕は別の場所でも体験した。先月の熊野寮祭の時だ。ある用事で長い間待たされたことがあったのだが、その間、僕は熊野寮の食堂でずっと漫画を読んでいた。周りの寮生が気になっていたが、その中での読書体験が本当に心地いい。いつもなら感じるような疲れもなく、するすると読み進めることができる。当時の僕は、家で積ん読中の漫画がどうしても読めないことで悩んでいた*2ので、場所が違うとこんなに変わるのかと驚いた。結局その時は途中までしか読めなかったのだが、直後にその漫画を全巻購入して読むことになった。熊野寮の環境が僕の無気力に喝を入れてくれたのである。

 


僕が熊野寮に移りたいと思うようになったのはこの頃からだ。思いを募りに募らせ、もう今は、狸の皮算用で何を持っていくか考えてばかりいる。入寮選考は2月末から始まるらしい。アニメのDVDや漫画は喜んで共有スペースに持っていくし、何と僕はマルクスの『資本論岩波文庫版も全巻持っている。*3どうにかして入れさせてもらえないだろうか。*4

*1:ここでは、①希死念慮が出てきて②義務・課題をこなすのが難しい状態くらいの意味。うつ病と直接な関係はない。

*2:僕は京大漫トロピーの会員なので、いつもなんとなく漫画を読まなくちゃと思っている

*3:たしか、この前寮玄関の中核文庫を見たら『資本論』は置いていなかった。熊野寮中核派に限らず、マルクス主義を勉強している人が多そうなので勉強会があったらぜひ僕も参加したい。

*4:熊野寮の選考は、特別選考を除けば抽選で行われるので賄賂は通用しない。

冴えカノとレイプ・ファンタジー言説についての所見

先日、『冴えない彼女の育てかた Fine』を見てきた。僕はこの作品に典型的なレイプ・ファンタジーの構造があると思っていて、今回は、レイプ・ファンタジーに関する議論と絡めながら冴えカノの話をしたい。

 

冴えない彼女の育てかた』(以下冴えカノ)は、オタクの主人公が、冴えない(=萌えキャラ的でない)クラスメイト、加藤恵を、メインヒロインに据えたゲームを作ろうとする話だ。

 

そもそも、美少女ゲームにおけるヒロインという概念は、性的目的のために存在しているという意味合いを多分に含んでいるので、親しくもない同級生に突然美少女ゲームのメインヒロインになってくれと頼み込むのはセクハラとも言える行動だ。

 


そんな提案を受け入れた加藤は現実にはありえない、完全にフィクショナルな存在である。そもそも、加藤のような明らかにフィクショナルな存在を物語の中に入れ込んでいるのは、当然ながら作者があえて意図したものだ。英梨々や詩羽も典型的な美少女ゲームのヒロインのようなキャラ付けがなされている。*1

 


冴えカノはメタ的な視点が多分に含まれた作品であるが、「倫也と3人のヒロインたちは、美少女ゲームにおける主人公とヒロインたちの関係と同じような関係にあり、その中でもメインヒロインは加藤である」という前提を常に意識させながら物語は進んでいく。

 


さて、劇場版では、加藤と主人公が結ばれる話が語られるのだが、僕はこれを見て、率直な感想として、こういうのがレイプ・ファンタジーと言うんだなと思った。

 


レイプ・ファンタジーについて、その主唱者の宇野常寛の説明を雑に要約すると以下のようになる。(詳しくは宇野常寛ゼロ年代の想像力』を参照)

 


セカイ系(や多くの美少女ゲーム)には、主人公やヒロインの相手を「所有」し、共依存的な関係を築きたいという欲望を肯定する構造がある。だが、相手を自分と一体のものとして飲み込もうというその欲望には暴力性があり、否定されなければならない。セカイ系(や美少女ゲーム)には、その暴力性を隠蔽するために様々な装置が埋め込まれている。主人公の自己反省は、「安全に痛い自己反省パフォーマンス」として、暴力性を肯定する構造を支えているのだ。

 

 

 

ここからはあくまで不正確な記憶に基づく一個人の感想になるので、そのつもりで読んでほしい。

 


冴えカノで、加藤恵は、主人公に振り回されつつも、彼の夢と目標が叶うように支える人物として描かれている。疲れている主人公に料理を振る舞って仕事を手伝う、彼を支えることを目標に生きている女性だ。もちろん、ゲーム作りが楽しいだとか、その他の事情に由来する行動の動機付けはなされている。だが、英梨々のところに相談もなしに行った彼を責めたシーンに見えるように、原則的には彼との共依存関係を求めている人格として描かれている。

 


僕は女性と仲良くした経験が皆無という、女性を語るのに致命的な欠陥がある人間だが、それでも、こんな都合のいい女いないよと思う。大体、作中で加藤が都合のいい女だったから選ばれた(意訳)とあえて明言しているところがもう気持ち悪い。この作品は気持ち悪いオタクの妄想なんだとメタ的に言及したところで、別にそれが肯定される訳ではないし、そういうところが「安全に痛い自己反省パフォーマンス」なんやぞ。まあ、だからこそ、エピローグで倫也が加藤に振られた時は、ガッツポーズしそうになったんだけどね。当然ながら詩羽先輩の妄想やったわ。ラブライブ劇場版で、フィクショナルな作品前提が最後に破壊されるところが好きなのだが、冴えカノにもそれを期待してしまった。やっぱり、嘘が嘘のまま終わるっていうのは気持ち悪いよ。

 


ここまで批判したけど、レイプ・ファンタジーみたいなものに対して無批判な作品ではなかったし、むしろ鋭い批判を内包した作品だったとは思うのよ。ヒロインたちが虚構の存在だということを常に意識させるように作られていたし。最後の加藤が倫也を振る妄想も、多分、現実には加藤のような人間はいませんよ、というメッセージだったと思う。これは完全に好みの問題だけど、僕は作中の現実世界で加藤が倫也に拒絶されるのを見たかった。あまりにも加藤のキャラが嘘っぽいからね。でも、加藤に拒絶される妄想から作中の現実世界に戻った来た時、よりリアル加藤の虚構性が浮き彫りになるという効果はあったはず。*2だって最後に加藤と倫也が抱きあうシーン本当に気持ち悪かったもん。見終わった後、しばらく吐き気が収まらなかったよ。といっても、このくらい気持ち悪い気分になれる作品ってすごいと思うし、おそらく意図してやってることでもあるんだな。レイプ・ファンタジー的な作品の気持ち悪さを抉り出してくれてるというか。振り返ってみたら本当に良い映画体験だった。冴えカノ最高や!

 

 

 

 

 

最後にレイプ・ファンタジー言説について僕の意見を述べておく。あらゆる物語は究極的には暴力性を肯定する構造をどうしても持ってしまうのであって、それは避けられない。僕がレイプ・ファンタジーとして批判するのは、①あまりにも度を越した暴力性の肯定が見られ、かつ、②それに全く無批判である、作品だ。要するに「安全に痛い自己反省パフォーマンス」もよほど酷くない限りは許容しようということだ。メタ的な作品構造への言及は、解釈の幅を広げてくれると思うからである。さて、冴えカノについては正直①には当たる作品だと思っているが、②に関しては、作品内部できちんと批判的視点も提示しているのであって全く当たらない。*3レイプ・ファンタジーのような構造を持ってしまうこと自体は批判対象にするべきではないと僕は考えている。

*1:ただし、美智留は少し違い、フィクショナルなヒロインたちと倫也との関係を外部から眺める立場の人間だ。だからこそ、倫也争奪戦に彼女は参加しない

*2:今思い返すと、現実と虚構が反転してるのが面白い。さっきラブライブ劇場版の話をしたけど、この辺もそれっぽかったな。

*3:宇野常寛は、『AIR』を槍玉に挙げているが、僕の感覚だと『AIR』は①にも②にも当たらない。加藤恵には、仮想上の男に都合のいい存在という印象しか抱かないが、神尾観鈴は、きちんと人間を表象した存在という感じがする。彼女には、彼女なりの人生があり、そこから導かれた彼女なりの生きる目的があるからだ。

サークル創設希望者のためのサークルデザイン入門

  はじめに

 この文はサークル創設希望者のために書きました。きっかけは、大阪大学トイレ研究会さんの以下のツイートです。

 大変熱意のこもった文章で、わかりやすい上に読みやすく、僕自身もためになるところが多々あったのですが、

  こんなツイートをしたら、阪大トイレ研の方から次のようなリプライをもらいました。

 このリプライに応えようとして文章を書いていたのですが、長くなってしまい、ブログに載せようと決意しました。上にあるとおり、サークル内の「親密度」をサークル設計の段階でどうやって調整するかというテーマを中心に扱っています。

 阪大トイレ研の「トイ研的サークル設立の教科書」を先に読んでから、読んでいただければよいかと思います。基本的なことは大体そちらに書いてあるので。

 

 ⑴親密度について

 

 ここでは「親密度」という概念を中心にサークルデザインについて考えていきたいです。

 親密度は、サークル会員の結束がどれだけ強いかを表す指標と定義します。

 親密度が高い時のメリットとデメリットは以下の通りになります。

 

 親密度が高いメリット

・ある程度親密度が高くないとそもそもサークルとして成り立たない

・固定メンバーが出来てサークルが安定する

・「居場所が得られた」感を得やすい

 

 親密度が高いデメリット

・新入会員の敷居が高くなる

・高ければ高いほど、入会して適応できる層が小さくなっていく

 

 以上を踏まえて、次からはサークルデザインと親密度の関係について考察していきます。

 


 ⑵サークル名による分類

 

 サークルには、大まかに分けて三種類あると思います。なお、はっきり分かれているわけではありません。


 ①趣味サークル

 例:京大漫トロピー

 サークルの基本。趣味や活動内容を名前に冠したサークル。

 能動的趣味サークルと受動的趣味サークルの違いがあります。違いはグラデーション状になっていて、はっきりと分ける線引きはありません。

 狭い範囲の趣味であればあるほど、親密度は上がります。


 ②ネタサークル

 例:サークルクラッシュ同好会

 明らかにネタとわかる名前のサークル。

 変わった団体に入りたいという方を引きつけやすいです。

 変な名前であればあるほど、変人を引きつけやすく、親密度も上がりやすいでしょう。


 ③属性サークル

 例:サークル退会者の会

 属性を名前に関したサークル。

 属性が少数派であれば少数派であるほど、また同じ属性を共有する人の共通点が多ければ多いほど、親密度は高まります。

 

この分類を前提に以下の話に進みたいと思います。

 


 ⑶活動内容

 

 ①受動的か能動的か

 例外はたくさんありますが、漫画の読書・プロ野球の観戦などの受動的な活動の方が、共通の話題が生まれやすく、親密度も上がりやすいでしょう。

 例外の場合も、受動的な活動がその中に含まれていると見るべきです。

 僕は入っていないのでよくわからないのですが、あえて例を挙げると、麻雀サークルでは麻雀プロの試合を見ることが会員に奨励される活動になっている場合があると思います。


 ②レベルの高さ・気軽にできるかどうか

 高いレベルを必要とすればするほど、親密度は上がりやすいです。やるハードルの高い活動であっても同様です。会誌制作には会員のレベルを高めると同時に活動のハードルを上げる効果もあります。

 


 ⑷活動時間

 

 ①サークルの活動頻度と時間

 活動頻度と時間は長ければ長いほど、親密度は高まります。

 文化祭の時だけ、あえて大変な企画を実行して親密度を高めるのも手です。会誌制作や屋台の出店などが考えられます。

 

 ②サークル外活動

 サークル外の活動も必要性が高ければ親密度は上がります。趣味サークルはサークル外活動を重視しがちです。その例を以下に書きます。

京大漫トロピー(漫画評論サークル):漫画を読む

京大野球協会(野球観戦サークル):野球を見る

 

 

 ⑸タイプ別のサークルの構造

 

 以上の話を踏まえて既存のサークルを分析してみます。


 ①趣味サークル

 受動的な趣味サークルの利点はなんといっても趣味の狭さや活動のレベルの高さで、親密度を高めやすい点です。

 能動的な趣味サークルは、サークル外活動を含めた活動時間の長さがポイントです。ただし、あまり忙しくないタイプだと、他の会員と仲良くなれるかどうかは個人の対人能力によって決まってしまいます。


 ②ネタサークル

 ネタサークルには趣味サークルのような趣味の狭さで親密度を上げる利点はありません。そのため、親密度を上げるためには活動時間・レベルを上げるか、サークル外活動の必要がある活動をやるなどがおすすめです。

 例ですが、サークルクラッシュ同好会では、読書会や会誌制作をやってたりします。


 ③属性サークル

 活動内容に関しては、ほぼネタサークルと言うことは同じです。珍しいタイプのサークルですが、生きづらさ系のサークルを作るなら、選択肢に上がってくると思います。どういったワードなら人が共感するか、考えて名前を考えましょう。

 

 ⑹サークル創設希望者へのアドバイス

 

 自分と気の合う友達を作りたい場合は、まずは趣味サークルを立ち上げることをおすすめします。読書会や鑑賞会という形式でもいいですね。

 趣味サークルの場合、よほどマニアックな趣味でない限り、最小限の宣伝でも人が集まりやすく、また、活動内容が決定しやすいため、どんな活動がいいかと考える手間も少なくなります。

 趣味サークル以外、ネタサークルや属性サークルを立ち上げるのは、はっきり言って修羅の道です。宣伝方法・活動内容について、これで本当にいいのだろうかと思い悩む日が続きます。新しい企画を考えても全く受けなかったり、会員がなかなか定着してくれないなどの苦労も多いです。

 創設者に作業量が集中しやすく、よほど熱意がないと耐えられません。それ故に引き継ぎも大変です。一代で終わることも多いでしょう。

 

 ただ、一から団体を作っていくので、なかなか面白い仕事ではあります。唯一無二のことをやってるという感じが自尊心をくすぐられるんですよ。自分の立てた変てこなサークルがあることによって大学内の環境も少しですが変わります。ほんの少し自由な空気になるんですよ。

 

 終わりに

 

 私(サークル退会者代表)にとってサークル退会者の会の理想は、大学での人間関係からドロップアウトした人たちが自分の居場所を見つけられるように助けられる存在になることです。そのためには、退会者の会だけではない、たくさんの多様な受け皿になるサークルが必要だと思います。この文が未来のサークル創設者の参考になれば幸いです。

夜と霧と阿知賀編

 

 

  はじめに(注意点)

 

 文章の終わりに、追記「Aブロック準決勝先鋒戦は収容所のメタファーか?」を加えました。阿知賀編に関しては、追記の方が本編より重要なことを書いていますので、ぜひ追記も読んでください。

 

 1,将来への不安

 

 ラーメン屋に並ぶ。今日は何ら価値のない1日だった。昨日の夜から睡眠を挟んでずっとゲーム。大学をサボった罪悪感と体の倦怠感。陰鬱とした気分を少しでも晴らそうと大好きなラーメンを食べに来た。僕の後ろでは、自分より少し年長の二人が、久しぶりに再会したのだろうか、身の上話に花を咲かせている。明るい様子を取り繕っているが、話している内容は暗い。ゆっくりと絶望に沈んでいくような将来への不安が彼の息の隙間から溢れ出している。彼の心労は、前にいる僕にも伝染した。

 

 僕は現在大学生だが、定職に就ける自信が全くない。まず、8時間以上にもなる長い間、平日は毎日決まった時間に仕事をするということができる気がしない。僕はメンタルが弱く、気苦労が溜まるとすぐ抑うつ状態になって大学に行けなくなってしまう。最低でも週40時間なんて、ぞっとするような長い時間働くなんて、精神が保つはずがない。加えて、チームワークというものが恐ろしく苦手だ。高校の時の文化祭では、自分が何をやるべきなのか全く理解できず、邪魔者扱いされた記憶しかない。これは職種にもよるだろうが、多かれ少なかれオフィスでも、同様のことが起きるだろう(発達障害じゃないの?と思われるかもしれないが、実際、最近ASDの診断を受けた) 。上司や同僚の苛立ちと蔑んだ目。これまで見ないようにしてきた不安が、後ろの二人の会話によって一気に解き放たれる。ストレスを発散しに来たはずだったのに、酷く陰鬱な気分になってしまったのだった。

 

 帰宅。美味しいラーメンを食べている間には忘れられた将来への不安が家に帰ってからからぶり返す。底の見えない、どこまでも下へ下へと落ちていくような絶望感。動悸を感じ、息をするのが苦しくなる。次第に、最近はおとなしくしていたはずの希死念慮も現れる。何もしないでいてはとても耐えられないので、スマホを開き、ここのところハマっているバックギャモンを始めたのだった。

 

 

 2,『咲-Saki-阿知賀編 episode of side-A

 

 約6時間、僕はバックギャモンをやり続けた。途中からずっと終わらせようと念じていたが、僕の薄弱な意思の力では止めることができなかったのだった。我に返った僕は、Fire TV Stickでdアニメストアを開く。どうしても辛くなった時に見るアニメがあるのだ。

 

 咲-Saki-阿知賀編 episode of side-Aである。(以下阿知賀編)あらすじの説明は省くので、知らない人は検索エンジンを駆使して調べて欲しい。

 

 画面に映るのは、Aブロック準決勝先鋒戦の最終盤、千里山女子の先鋒、園城寺怜が、最強の敵、宮永照を前に、危険を冒して三巡先を見ようとするシーンだ。 照は怜の力量では勝つことが困難な相手だ。力を使いきり朦朧とする意識の中で、怜は心中呟く。

 

「生きるんて辛いなあ」

 

 しかし、それでも怜は抵抗をやめない。命を削るような負荷がかかる能力を使ってまで照に立ち向かっていく。怜を支えているのは大切な仲間への思いだった。「ここから先は、みんながくれた一巡先や」というセリフがその思いを象徴している。怜の決死のプレーにより、松実玄の倍満が照に直撃、長い先鋒戦は幕を閉じることになるのだった。*1

 

 僕はいつも思うのだが、照に追い詰められたこの状況は、どうにもならない現実の象徴ではないだろうか。この最終盤での怜の姿は辛い現実に抗おうとしてボロボロになった我々の姿である。 僕は生きるのが辛い。それでも自殺せずにいるのは、僕が死んだら悲しむ人がいるからに過ぎない。元より、生きててよかったと思えるような未来を期待することはできない。怜も結局は照に勝つことはないのだ。せいぜい、玄をアシストして、一矢報いた程度である。

 

 

 3,フランクル『夜と霧』

 

 フランクルは『夜と霧』で、こう書いた。

 

「わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ」(みすず書房の新板、池田香代子訳)

 

 ここには、フランクルが、ナチス強制収容所体験で得た、辛い現実との向き合い方が凝縮されている。阿知賀編を見ていて思い出した言葉だが、どういった文脈で語られたのか、ここで説明したい。

 

 フランクルユダヤ人で、ナチスユダヤ人虐殺の生き残りだ。『夜と霧』では、まず、ナチス強制収容所という極限の状況下で、被収容者の精神にどのような影響が出たのかを分析している。収容された直後の段階、収容所生活の段階、解放後の段階と三つの段階を説明しているが、重要なのは二つ目の収容所生活の段階である。

 

 被収容者の第一の特徴は、感情の消失である。強制収容所の内部は、飢餓・暴力・重労働・死が日常化した世界だ。生き残ることに全関心が集中し、監視者の暴力や仲間の死に全く感情を抱かなくなる。環境に適応するための自己保存プログラムだとフランクルは言う。加えて、厳しい外的な状況から目を背けるために、内面への没入が始まる。豊かな内的世界の保持は生き残る上で非常に重要であって、いかに強靱な内的なよりどころを持つかは収容者の運命を大きく左右した。個人の命の価値がとことん貶められる収容所生活では、自我が無価値に思え、主体性の自覚が消失する。解放される見通しが全く立たない中で、希望を打ち砕かれ、やがて目的をもって生きることができなくなる。未来への希望の喪失は、現実をまるごと無価値なものに貶めることに繋がり、やがては自己放棄に至る。死にゆく被収容者はこう口にする。

 

「生きていることになんにも希望が持てない」

 

 これに応えようとしたのが、最初に挙げたフランクルの有名な言葉であった。

 

 生きることは我々に何を期待しているのだろうか。フランクルは、我々が常に生きることが各人に課す責務の前に立っていると言う。この責務は、人により、時間ごとに変化する、一人だけに一回きり与えられるものだ。常に具体的で、同じ状況に置かれていても、各人ごとに異なっている。自分だけ、一回きりの変更不能な現実に対してどういう態度を取るかということに責務があるというのがフランクルの主張である。

 

 ここで阿知賀編の話に戻ろう。

 

 準決勝先鋒戦終盤、花田煌は、絶望的な状況下でチームが勝ち上がるために何をすべきか考え、迷ったのち、こう発言する。

 

 「その時私が二位で終わる確率とみんなが巻き返して二位以上になる確率…それを計算して比較できるほど私の頭はよくない。でも一つだけ、わかっていることがある。自分が納得できる方!誰もトバさせない。」

 

 フランクル式に言えば、ここで花田に与えられている「生きることの課題」は、「絶望的な試合展開でどう振る舞うか」ということだ。その背景には必要としてくれる仲間への思いがある。フランクルは、たった一度しかない状況で問われた課題に対し、そのたびごとにたった一つの答えだけを受け入れると、説明しているが、花田の選択とよく重なるものがある。

 

 フランクルは、苦しみを責務として引き受けることの重要性を強調する。各人の苦しみは、誰も取り除いたり、身代わりになることのできない、自分だけの苦しみだ。先に挙げた怜の言葉に象徴されるような「生きる辛さ」は、誰もが他人とは違う唯一無二の形で持っている責務なのである。自分だけの苦しみと真っ向から向き合い、引き受けることが、自分のかけがえのなさを自覚し、自分だけの人生を切り開く力になる。

 

 怜の苦しみは、チームのために勝たなければならない状況で、宮永照にどうあがいても勝てないことにあった。自分の力量が及ばない苦しみの中で、怜はその苦しみを受け入れつつ、それでも全身全霊を賭けた決死のプレーで立ち向かっていく。怜が諦めなかったのは、自分の苦しみを受け入れることができたからである。及ばない苦しみに正面から向き合ったからこそ、責務に対する「照に一矢報いる」という自分の答えにたどり着き、必死の抵抗が可能になったのだ。*2

 

 フランクルが他に重視しているのは、よりどころの存在である。彼が例に挙げているのは愛する人とやりたいことの存在だ。各人の愛する人ややりたいことへの思いは、これもかけがえのないものであり、自分のような仕方で愛する・やりたいことをやるといった行為は、自分以外にはできないことだ。フランクルは言う。「自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない」と。

 

 阿知賀編で怜や花田が見せた抵抗の背景には、自分を必要としてくれる仲間の存在があった。彼女らは、愛する仲間に対する責務を自覚していたからこそ、どんなに絶望的な状況でも試合を放棄しない。

 

 また、好きな麻雀に対する責務も感じているはずだ。先鋒戦序盤、予想以上に強い照に一方的にやられ、諦めかけた怜は、こんな言葉を自分に言い聞かせて立ち直っている。

 

 「義務や目標は思いけど、せめてあの頃のように打ちたい!」

 

 これもフランクルのいう責務の意識化の一例だろう。怜は麻雀への愛を意識化することで、自分のプレーの支えにしている。自分が麻雀を愛するに値する人間であろうとするのだ。
 
 

 こうして書いてみると、阿知賀編がいかに『夜と霧』と適合した話であるかということに驚かされる。僕が初めて阿知賀編を見たのは、浪人中の受験直前期だ。大学合格への熱意を失い、勉強に身が入らない日が続く日々。今日と同じような将来への不安に押しつぶされながら、早く試験が終わることだけを願っていた。フランクルが指摘した、「目下のありようを真摯に受け止めず、非本来的な何かなのだと高をくくる」被収容者の性格類型はこのときの僕に丸ごと当てはまっていたのだ。

 

 なんとなく見始めた阿知賀編。仲間のため、自分のために現実に抵抗する怜の姿は、僕の心を激しく打った。自分のあるべき姿がそこに映っていたからである。それ以来、僕は持てる力を振り絞って受験勉強に取り組んだ。京大を受けると宣言して浪人した以上、両親と自分に対して責務があると考えたからである。実を言うと、『夜と霧』はこの文章に引用するために初めて読んだのだが、フランクルが描き出す被収容者の精神状態が、受験直前期の僕とあまりにも似通っていて驚きを禁じ得ない。僕が阿知賀編を見て学んだと思っていたことがそのまま言語化されているのだ。

 

 

 4,これからの生活

 

 さて、現在の僕の生活に話を戻そう。
 
 前に述べたことを繰り返すと、僕の苦しみの最たるものは、将来、満足した生活が送れるかという不安である。ざっくりまとめると、今の社会システムに適応できる自信が無いということだ。言語化してみると、実に漠然としている。実際できるかどうかわからないことで、悩んでいるのだ。フランクルは、被収容者を「無期限の暫定的存在」と定義した。苦痛の多い暫定的な状態がいつ終わるか見通しがつかない人間を指している。僕も、自分が完全に独り立ちしたと確信できるようになるまで、いつまでかかるかわからないという意味でこの定義に当てはまる。

 

 ここまでの話を踏まえて僕がやるべきことは、遠い将来への不安に押しつぶされるのではなく、まず、目の前の苦しい責務と向き合うことではないだろうか。授業に出る・サークル等の仕事をこなす・専攻についての知識を深める、などといったことだ。次に、自分のやりたいことに真摯であること。好きという気持ちを忘れないように取り組むのだ。たとえば、僕はこうして文章を書くのが好きである。自分の考えが整理され、自らの中に新しい発想が生まれるのが心地いいのだ。だが、僕は自分の書く文章に自信があるわけではない。しかしだからこそ、行為にもかけがえのなさが宿るというフランクルの思想に勇気づけられたのだった。自分にしか伝えられないことがあるのだから。

 

 フランクルは、どんなに過酷な環境であっても、人間に精神の自由が存在することを訴えた。人間に自由意志があるのか、そのことは科学的には証明できない。だが、自分自身の人生を生きるため、主体性の感覚を取り戻すために、僕はあえてフランクルに従いたい。『夜と霧』は、そう信じさせる強い引力を持った名著である。

 

 追記 「Aブロック準決勝先鋒戦は収容所のメタファーか?」

 

 この前、夜と霧と阿知賀編は似ているという話をしていたら、ある人に「収容所のメタファーになってない」との批判をいただいた。その時は、「夜と霧で収容所は重要じゃない」ととっさに下手な反論しか返せなかったのだが、後で思い返してみるとなかなか正鵠を得た批判であって、この辺の説明はこの記事ではしていなかったと思い、追記を書くことにした。

 

 まず、夜と霧で語られる責務の引き受けの思想と収容所体験の関連性について、語らなければならない。本文では、雑にまとめてしまったのだが、『夜と霧』では、まず収容所生活で起きた出来事、フランクル本人が気づいたことが語られた次に、本題に入る前提として、被収容者のありようを定義している。本文でも少し触れたが、「無期限の暫定的存在」というのがそれだ。

 

 一度、フランクルがこの語によって何を言おうとしているのかをまとめよう。

 

 まず、被収容者は、解放後の未来が不確定という意味で、「暫定的存在」である。たとえば、浪人生は、進路が不確定であるため、失業者も、就職先が不確定であるために、暫定的存在ということが出来る。

 

 さらに、フランクルは、「暫定的存在」に「無期限の」という語を追加している。被収容者が、いつ暫定的な状態から解放されるのかわからない、という点を重視したためだ。解放の期限がいつかわからないということは、解放の終わりが来ない可能性があることを意味する。


 解放の期限が明示されていれば、「その期限まで苦しさに耐える」というはっきりした目的ができるだろう。私の受験生時代を振り返ってみても、期限が明確であるというのは強い支えになったのは間違いない。だからこそ、その期限がはっきりしないと、徐々に目的をもって生きることが困難になるのである。

 

 フランクルは、被収容者のありようだけではなく、失業者や療養所の患者にも当てはまると述べているように、この概念は、かなり普遍的に当てはめることができる。私が、夜と霧において、フランクルの体験が「収容所」で起こったということにあまり重要性を置かないのはそのためだ。

 

 さて、表題の話題に移りたい。怜や花田が置かれた状況が、フランクルの収容所体験とどう類似しているか、という問いである。

 

 「無期限の暫定的存在」であるという点において、怜や花田の状況が『夜と霧』の主題に重なる、というのが私の結論だ。

 

 重要なのは、彼女らが戦っているのが、団体戦の準決勝先鋒戦であるということである。

 

 まず第一に、団体戦という点。彼女らは個人の勝利ではなくチームの勝利を目指さなければならない。


 次に、準決勝という点。準決勝の勝利条件は、4校のうち上位2校であることだ。つまり、最強の宮永照を擁する白糸台高校に及ばなくても、他の2校を上回れば、勝ち進むことができる。

 

 最後に、先鋒戦という点。チーム人数は五人で、一人ずつ、五回の試合の合計点数で勝敗を競うことになる。怜たちは、その一番最初の試合であるので、彼女らが、どんなに大差でリードしても誰かをトバさない限り勝利は約束されないし、逆にどんなに差を広げられても、勝利の可能性はあるということになる。

 

 ここで、先鋒戦最終盤、照が他の三者を前に圧倒的にリードしている場面での花田のセリフを再び引用しよう。

 

 「その時私が二位で終わる確率とみんなが巻き返して二位以上になる確率…それを計算して比較できるほど私の頭はよくない。でも一つだけ、わかっていることがある。自分が納得できる方!誰もトバさせない。」

 

 ここでの花田の迷いを解説しよう。

 

 まず、照の連続和了は、三者が協力しないと止まらない。*3つまり、照を止めようとしなければ、誰かがトバされて終わる、ということだ。この時点で三者のうち頭一つ抜けている怜は疲弊しきっており、もし準決勝が先鋒戦で終わったとき、三者のうちのどこのチームが勝ち進められるかは全く不透明だ。

 

 そして、先鋒戦であるが故に、もし三者の協力で、照の連続和了を止めた場合を考えてもまた、どこのチームが勝ち上がるかは不透明である。

 

 つまり、花田が告白するように、どの選択をすれば、自分のチームにとって有利か全くわからない状況なのである。

 

 怜の場合は、もう少し複雑だ。千里山は全国トップクラスの強豪校で、準決勝でも一位通過を狙っている。加えて、回想シーンで描かれているように、怜は照を倒すことを目標にして麻雀を打ってきた。照は、昨年親友のセーラが大敗を喫した相手だったからである。


 加えて、怜には未来視という必殺技がある。これは諸刃の剣で、体への負荷が大きく、二巡先となると、意識を失う危険があり、三巡先ともなると自分の体がどうなるのかがわからない。

 

 怜には花田以上にいくつか選択肢がある。

 

 まず、照を止めるために、体の負荷を考えず、三巡先の未来視を使い、全力で照を止める選択肢。照を止めれば、後続の頑張りで一位で通過できる可能性はあるが、自分の体がどうなるかわからず、死ぬ可能性すらある。

 

 次に、自分の体への負荷を考えつつ、花田たちとの連携をキープして、照の撃破を狙う選択肢。ただし、これは、その前に描写された照の実力を考えると、成功は難しい。


 最後に、照の攻撃の回避に専念する方法。疲労を考えると確実とはいえないが、三位を2万点以上突き放しており、二位で勝ち上がる可能性は十分にある。*4

 

 やはり、どの行動を取るのが正解なのか、全くわからない状況であることには変わりがない。

 

 選択の不確定性は、『夜と霧』においても重要な要素である。フランクルは幾度となく、生きるか死ぬかという選択を切り抜けてきた。実際、病人たちへの愛着から、一見絶滅収容所行きとみられていた病人の被収容者の移送に付き添ったフランクルは、、より楽な環境の収容所にたどり着いて生き延びている。どの選択が正しいかわからないという状況が、被収容者の精神状態に重大な影響を与えていることは簡単に想像が付くだろう。フランクルは、自分が運命のなすがままになっているという圧倒的な感情が、被収容者が自分で何かを決めることにひるんでしまった原因の一つだと述べている。これは、フランクルが「無期限の暫定的存在」として例に挙げた失業者においても当てはまることであるし、先鋒戦の怜や花田の状況にも合致している。こうした環境では、何かを決めるということ自体が難しいのである。

 

 試合の結果が不確定ということに加えて、選択自体の不確定性を考えると、彼女らは、まさにフランクルのいう「暫定的存在」と呼ぶにふさわしい状態なのではないだろうか。

 

 さらに付け加えたいのが、照の連続和了という状況だ。照は最終局の親番で、他の三者が止めない限り、誰かをトバすまで上がり続ける。そう、終わりがいつなのか分からないのだ。『夜と霧』で描かれているように、暫定的なありようの終わりが見えない状態に置かれた収容者は、未来に目的を持って存在することが難しい。彼女らも「無期限の暫定的存在」として同じような状況に置かれているのである。

 

 「暫定的存在」の無期限性(期限の不確定性)は、とりわけ怜においてよく当てはまる。①照が誰かをトバして終わる、②三者の協力で照を止める、という二つのパターンの他に自分が倒れるという第三の終わりを迎える可能性があるからだ。死の危険があるという意味では、被収容者の状況に最も近いのは怜であろう。

 

 実際、怜は目標を見失いかけている。「生きるんて辛いなあ」と呟く箇所がそれだ。このとき、怜の意識は一瞬、試合からは遠のいている。怜はチームの仲間を内的なよりどころとし、自らの責務に対する答えを選び取っていくのだが、その話は本文に書いた。そろそろ、この追記を終わらせることにする。

 

 (特にアニメにおいて)阿知賀編が先鋒戦にフィーチャーしたのは、考えのないことではない。「無期限の暫定的存在」という状態から、どう現実に立ち向かうかを描くためには、先鋒戦でないといけなかったのである。いや、団体戦の先鋒戦というだけではない。二位以上の勝ち上がり・照の連続和了・怜の能力の危険な副作用、これらのうち、どの要素が欠けても、私の愛する阿知賀編にはならなかった。よく出来た話だとつくづく感心してしまう。

 

 「無期限の暫定的存在」となる状況は、決して収容所の中で起こるものではなく、身近なところにも可能性として転がっている。本文でも触れた通り、私の今の状況もそれに近いと私は考えている。私の共感は、はたから見たら思い込みかもしれない。だが、『夜と霧』が広範な支持を得たのは、フランクルの体験の持つ普遍性が共感を呼んだのではないかと思うのである。

*1:詳しくはいろいろな考察サイトがあるので見て欲しい。アニメではまるで玄を助けたかのように見えるが、実際のところ、怜は三巡先の未来視によって、玄の三倍満ツモを阻止し、照に和了り牌を掴ませている。あの状況下で玄の和了を無理矢理阻止すれば、自分は和了れず、照の親ハネ和了の可能性が高かった上、試合が続けば、極度に消耗していた怜に直撃を回避することができる保証はなかった。

*2:実際はそんなに単純ではないだろうけど、アニメではそう見える描き方をしている。

*3:最終局のシーンを見なければそう見えるのでこうは書いたが、協力がなかったとしてもオーラスで玄は上がっている

*4:三巡先の未来視を使った後ともなると状況が異なる。疲労によるリスクが上昇し、未来視が使えない可能性が高くなってしまう

アニメ『School Days』感想(ネタバレ有)

  School Daysは良きにつけ悪しきにつけ、知名度が非常に高い作品だ。主人公が殺される衝撃の最終回は放送後10年以上経った今も話題にされ続けている。僕も例のシーンだけは有名なので見たことがあったのだが、話題性だけのアニメという印象が強く、今の今まで見ないでいた。

 


  ところが、実際見てみると、これが予想以上に面白い。

  常に視聴者をドキドキさせる仕掛けがあり、飽きさせないのだ。

  序盤は誠が世界の助けで言葉と付き合う話だが、徐々に世界と誠は接近していく。二人の接近に、言葉と付き合っているのにいいのか?本当にいいのか?と夢中になってしまった時点でもう負けだ。その後は、もう画面から離れられない。時には、主人公の節操のなさにイライラし、時には、放蕩主人公に振り回されるヒロインたちに同情する。見てる間ずっと感情を引き出してきて、その構成技術にはすっかり驚かされてしまった。

 


  この面白さのポイントは、主人公の思いとヒロインの思いの重なりと食い違いのバランスだ。言葉についても世界についても言えることだが、付き合い始めくらいまでは、相互に愛し合っているのに、次第に両者の愛に溝が生まれてしまうのだ。

  言葉も世界も主人公との逢瀬を重ねるごとに誠への愛情が強くなっていく。だがその一方で誠の方は、接触する機会を重ねるごとに相手の不快な面ばかりが目についてしまい、嫌になってしまうのだ。

  重なり合っていた思いがすれ違ってしまう、その無常さに感情を動かされるのである。

 


  さて、この作品を語る上での僕のキーワードは、"完璧主義"だ。

  誠の失敗は、彼の完璧主義にある。彼が女を取っ替え引っ替えするのは、100%の快楽でないと満足できないのである。彼は、自分のことを全て受け入れてくれる理想の女性を求めていた。言葉や世界に対しても多分に自分の理想を押し付けていた部分があるようだ。だから、彼の求めを彼女らが拒めばそれだけで不満になり、結果として彼の中で悪い印象が肥大化していき、破局に至るのである。

 

  誠は、「彼女に自分の理想を押し付ける」→「理想と現実の食い違いに不満を持つ」→「理想を求めて別の女に手を出す」→(最初に戻る)というサイクルを繰り返しているのだ。

 


  こう捉えてみると、誠の抱えている問題が身近なものに見えてこないだろうか。僕らはいつも理想と現実の狭間で苦しんでいる。毎日辛くて苦しくて、それで死んでしまう人だっているのだ。

  考えてみれば、言葉や世界だって同じじゃないだろうか。"自分のことを変わらず愛してくれる誠"という理想に過剰に依存していた彼女らは、それが現実と決定的に乖離したとわかった瞬間に、壊れてしまった。誠との違いは、彼女らにはもう理想の誠にすがる以外の選択肢が無かったことだろう。世界が追い詰められて選択肢を失っていった過程は、よく描けていたと思う。依存していた刹那と誠が次々と自分の元を離れていった結果、彼女は誠を殺すに至るのである。そして言葉も…

 


  School Daysは、僕たちの苦しみの根源にあるものに迫っている。この苦しみの解決策はおそらくないのだろう。受け入れて生きるしか方法はきっとないのだ。それに気づかされた作品だった。

日常系アニメの不思議

   読まなければいけない本に取り組もうとしていたはずが、気づいたらみなみけを見始めていた。

   あともう1話…最後の1話…本当にこれで最後…

   大して大事件が起こるわけでもないのに、見るのをやめられない。

 

   展開がよく動くタイプの物語ならば、見るのをやめられない理由はわかりやすい。

   次の展開が楽しみになるように謎を残しているからだ。

   ところが、日常系アニメの場合、次の展開がどうなるか楽しみで見る、といったことは全くありえない。解明されるべき謎が存在しないからだ。

   では、なぜ日常系アニメを見続けてしまうのか?

   思いつく限り考えられる理由を挙げてみよう。

 

①ギャグパートが面白い

   これはギャグアニメを延々と見てしまう原理と同じだろう。面白いものを見る動物的な快感によって、一種の中毒のような状態になっているのだ。

 

②キャラクターのかわいさが心地いい

   これも動物的な快感から生じる中毒性が原因である。キャラクターのかわいい言動に自動的に快感を感じてしまうのだ。

 

③キャラクターへの愛着が強化されている

   これは②と似ているようで違う。僕が思うに、キャラへの愛着の強化に必要なのは、差異と反復だ。(ドゥルーズ全然知らないんですけどね。勉強したいなあ。)

   差異とは、それぞれのキャラクターごとのステータス・性格・言動の差異を指す。それぞれ異なったパーソナリティを与えられたキャラクターは、そのキャラクター独自の行動パターンを反復することで、確固としたイメージを視聴者に植え付けることができるのだ。そして一度、イメージが固まると、反復された行動を見るだけで安心感が出るようになる。これが僕のいう愛着である。

   僕が特に重視したいのがこの理由だ。というより、キャラへの愛着の強化により重点が置かれているアニメが僕は好きなのである。

 

 

   ここまで、日常系アニメの重要な要素を3つ紹介してみたが、並べてみると、全ての創作ジャンルにとって重要な項目であることに気づく。日常系アニメは、創作に必須なこの3つの側面が奇形的に強化されたジャンルと言えるのかもしれない。

   とすると、他の創作上の快感を生み出す要因も付け加え、それぞれの作品でどの要素に重点が置かれているかを調べることで新しいジャンル分けが可能なのかもしれない。

   例えば、ラブコメは、今回紹介した3つの側面が強化されたジャンルと言えるため、広い意味で、日常系と同じジャンルに入れてもいいと思われる。異論はあるだろうが。

 

   僕たちが物語の続きが気になるとき、今回挙げたもの以外にもたくさんの要因が絡まって、そうなっている。みなさんも自分でその要因を見つけて考えてみて欲しい。