『陰キャ』のすすめ~『陰キャコミュ障』礼賛~

 

 はじめに

 この記事は、僕のような、集団での人間関係に苦しむ『陰キャコミュ障』たちに向けて書いた。
 特に人間関係に悩んでいる人で、読むのが面倒な人は四節目の『僕がコミュ障に二つのタイプがあると気づいたわけ』だけでも読んでほしい。
この記事を読んで「当たり前のことをわざわざ書くな。時間の無駄になった。」と思う人も多いと思うが容赦願いたい。
 なお、この記事では、『コミュ障』・『陰キャ』といった差別用語をあえて使用した。こうした用語をかならずしも一般的な意味と同じようにとれない文脈で使うことによって、普段何気なく使っている語の意味を土台から揺るがそうとの魂胆である。

 

 『コミュ障』とは何か

 『コミュ障』とは、『コミュ力』のない人を『コミュ力』がある(と自分で思っている)人から指した蔑称である。したがってここでいう『コミュ障』について説明するには、僕の考える『コミュ力』の定義を挙げれば十分だろう。

 『コミュ力』には、円滑な意思疎通ができる能力と、周りの人の意向に配慮できる能力の二つの意味があるが、この記事では、後者の意味で使いたい。『空気』を読む能力とも言い換えられるだろう。したがってここで扱う『コミュ障』は、周りの意向に配慮できない(=『空気』が読めない)人ということになる。
*僕の感覚ではコミュ力とコミュニケーション能力は同じ意味ではない。コミュニケーション能力のほうが意思疎通能力という意味を持つ側面が強いと思われる。

 

 『陰キャ』と『陽キャ

 『陰キャ』と『陽キャ』についてもこの記事で扱う重要な概念になるので説明したい。『陰キャ(=陰キャラ)』『陽キャ(=陽キャラ)』というのは、それぞれ内向的な人間、外交的な人間という意味である。『陰キャ』というのは、人とかかわるのに積極的な人間のほうが好ましいと考える立場からの蔑称で、『陰キャ』が自嘲的にみずから名乗る場合もあるが、『陽キャ』が内向的な人間に対して侮蔑をこめて使う場合が多い。以下、本論に入ろうと思うが、『』はわずらわしいので外すことにする。

 僕がコミュ障に二つのタイプがあると気づいたわけ

 小学校以来、僕はずっとコミュ力の低さに悩まされてきた。とりわけ嫌だったのは、僕のようなコミュ障を排除し、馬鹿にする陽キャの存在である。どんなクラスにもたいてい一人はいた彼らは、僕がコミュ障であるとみてとるや、ありとあらゆる手を使って僕をいじめてきた。僕に話しかけ、返答すると無視したりからかったりする、なんてものは軽い方で、ひどい場合だと授業中延々ずっと、僕の悪口をわざわざ僕に聞こえるような声で喋り続けるなんてのもあった。

 とりわけ、僕にとってつらかったのは、彼らがたいていは集団の中心にいて、その集団内で大切にされているように見えたことだった。

 どうしてあんなやつに友人がたくさんいるんだろう?もしかして僕は世間一般の人から侮蔑されて当然の人間以下の存在なのではないか?
 まだ人生経験を十分に積んでいない中高生のころの僕がこう考えるのは自然ではないだろうか。

 実際僕は、中高時代を通して、世間一般の人間は僕を見下しているというゆがんだ思考を発展させていった。ひどい時期は周りの人間全員が僕を見下している敵なのだという妄想を抱くようになるまで追い詰められた。漫画『聲の形』の冒頭では、希死念慮を抱えた主人公の周囲の人間の顔すべてに「×」が付けられるという表現がなされているが、あれはまさに当時の僕の日常を的確に表現したものだと思う。

 さて、以上に述べたように僕はあの種の陽キャに大変苦しめられた人生を送ってきたが、鬱を克服し、今まで顔に「×」をつけてきた人間と接してみたところ、僕の想像とは全く別の事実が浮かび上がってきた。単刀直入に言おう。彼らあの種の陽キャは大変嫌われていたのである。それも一人だけではない。複数の人から悪口を聞いた。というか僕が聞く誰かに対する悪口は、たいてい彼らのようなタイプの人間に対するものだったのだ。

 僕は今まで、彼らは集団に適応に成功しているコミュ力の高い人間で僕よりも周囲から尊重されている人間なのかと思っていた。ところが、彼らの悪口をいう人からすれば、彼らこそが周囲の意向を尊重しない(=コミュ力のない)人間なのであって、僕は全然マシだということである。僕も今でこそ当然のことだと思っているが、当時の僕は彼らが周囲にそのように思われているという事実は、人生観がひっくり返るほどの衝撃であった。

 以下、彼らのようなコミュ障を一般的な意味でのコミュ障(=陰キャコミュ障)に対置する「陽キャコミュ障」と名付け、僕なりの考察をすすめたい。

 

 二つのタイプのコミュ障

 これから、陰キャコミュ障と陽キャコミュ障の典型例について述べたい。多分に僕の主観が混ざっていると思うが、重要なのは客観性ではなく、読者に、陰キャコミュ障と陽キャコミュ障それぞれをイメージしてもらい、二つの概念に現実性を持たせることである。もとより、両者を分ける境界線はなく、みな両方の特徴を含んだ、それぞれが違った個性を持っているはずである。

 

陰キャコミュ障

 集団でのコミュニケーションでは一種の支配関係が働いている。『空気』を作る人間が『空気』を読む人間を同調圧力によって支配する関係である。通常の対等なコミュニケーションでは、『空気』を作る役と『空気』を読む役をお互いに交代しながら会話は進んでいく。『空気』を読む能力も、『空気』を作る能力もないせいで、この輪に入れない人が陰キャコミュ障と言えるだろう。

 彼らは多くの場合、自分にコミュ力がないと自覚している。

 自覚しているからこそ、集団を避けて一人または二人でいることが多く、陰キャと呼ばれることになる。彼らは、今までの失敗経験から、人に嫌われるのを過度に恐れているだけで、人と接すること自体は好んでいる場合が多い。彼らが集団を避けるのも、集団で会話すると空気を読む必要が生まれ、『空気』を読めなかったことで非難されることが怖いからである。そのため、集団の中に入らざるを得なくなったときでも、ただ黙って何もせず無為な時間をすごすことになる。

 人間不信に陥っている場合も多く人間関係を必要以上に避けがちだが、集団での人間関係に縛られることは少なく、ストレスの少ない自由な生活を送っている者もいる。

陽キャコミュ障

 多くの場合、自分にコミュ力があると誤解している人間である。今までグループの中心で活動していた人が多く、自らグループ内の『空気』を作ることに長けている。集団で活動することを好み、「空気を読む」ことを最重要視し、「空気の読めない人間」をコミュ障と呼んで非難する人間が典型的である。また、彼らは『空気』を作れるがゆえに周りからも「空気の読める人間」と誤解されている場合がある。むしろ自分もそう思っているからこそ集団になじめない自分とは異質な人間を「空気が読めない」と呼んで非難するのである。

 では、なぜ彼らは陽キャ”コミュ障”なのか。

 それは彼らが往々にして周囲に配慮することができないからである。先に述べた通り、通常の対等なコミュニケーションでは、『空気』を作る役は周囲の意向に応じて交代しないといけない。ところが、彼らは、周囲の意向がわからないか、配慮する気がないかいずれかの理由で、みずからの『空気』を作る役を他者に渡そうとしない。その上で彼らは、自らが作る『空気』についていけない人間に対して歩み寄ろうともせずに非難するのである。

 ところで、最初に説明したように、コミュ力(=『空気』を読む能力)とは、周囲の意向に配慮する能力である。他者に歩み寄り、配慮しようとしない(実はできないのかもしれない)彼らの態度がコミュ力の不足でなくて何であろう。また、彼らの他者への非難は、多くの場合、周囲の同意を得られているわけではない。周囲が同調しているのは『空気』を作る彼らが集団内で上位のヒエラルキーに位置しているためであって、彼らの他者への非難に同調しているとは限らないのである。

 つまり、彼らは他者を非難することによって、周囲に不快感を与えている場合が多いのである。ここからは僕の推測だが、その調子だとおそらく他者への非難を行っている時以外でも、彼らは『空気』を作る能力を存分に発揮して周囲の意向に沿わない行動を繰り返していたと思われる。その結果が、彼らへの周囲の嫌悪感につながっているのだろう。彼らには明らかにコミュ力が欠如しているのである。

 以上述べたものが典型例だが、他者への非難をあまり行わない人でも、陽キャコミュ障でありうる。その場合も、『空気』を作る役を絶えずやることによって、周囲を自らが望む行動に半ば暴力的に同調させてしまい、結果として周囲に疎まれやすい点では変わらない。

 

 両者の違いと同質性

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 では、何が陰キャコミュ障と陽キャコミュ障を分けるのであろうか。それは、『空気』を作る能力があるかどうかである。それ以外の点では、どちらも同様にコミュ力が欠如している。『空気』を作る能力があれば、集団での会話の主導権を握ることができるので、たとえ『空気』が読めなくても集団に適応できる。あくまで『空気』を読む能力(=コミュ力)が求められるのは、『空気』を作る人の周囲にいる人であるので、『空気』を作る人がコミュ力も同時に持っているとは限らないのである。

 一方、陰キャコミュ障は『空気』を作る能力が欠如しているので、会話の主導権を握ることはできない。したがって、集団内では『空気』を読むことが求められるが、『空気』を読む能力もないので、集団で孤立するのである。

 ただし、両者はコミュ障という点では同じ性質をもった人間で、実際の会話の場面での違いはあくまで相対的な『空気』を作る能力の力関係によるものである。そのため、陰キャコミュ障の性質を強く持つ人であっても、自分よりさらに『空気』を作る能力が低い人ばかりの集団に入るなどして『空気』を作れる状況になってしまうと、彼はその場でのみ実質的に陽キャコミュ障と変わらない状態になってしまう。陽キャコミュ障を生むのは、あくまで、『空気』を読めないコミュ障に偶然ある程度の『空気』を作る能力があり、それによって集団の上位のヒエラルキーに立つことができた場合である。

 陰キャはコミュニケーションの場での失敗体験を繰り返し、自分が『コミュ障』であることを自覚してはじめて陰キャになる。

 それと同様に陽キャも、集団の中心に立ち続けるという成功体験を積み重ねることによってはじめて、自らの性格・行動をいきすぎなほどポジティブにとらえるようになり、自らと異質な他者を排除する独善性を持つに至るのである。

 陰キャの強み

 では、陰キャコミュ障の強みとは、何であろうか?

 それは、「『空気』を作れない」+「『空気』が読めない」という特質によって、集団でコミュニケーションをする場自体を避けられることそれ自体だと思う。集団でのコミュニケーションが苦手だとはっきりわかっているからこそ、マイナス面の多い集団での人間関係を避けようと思えるのである。

 よく、お酒に弱い人のほうがアルコール依存症になりにくいから望ましいという話を聞くが、それと同様に、集団が苦手な人(=陰キャ)のほうが、集団での人間関係に依存しにくいから望ましいという考えも成立するのではないだろうか。

 人間だれしもが持っている、集団に馴染みたいという欲求はあまりにも強い。典型例の陽キャコミュ障も『空気』を作れる能力があるがゆえに、集団の中に入っていって周囲に嫌われ、結果として、相互に相手のことを思いやることのできる健全な人間関係の構築に失敗しているのである。また、漫画『凪のお暇』の主人公がまさにそうだが、集団で馴染める力を持った人間(=非コミュ障)の中には、どうしても集団での人間関係に依存してしまい、周囲の求めるキャラを演じ続けた結果、自分がやりたいこととのギャップに疲れ、精神を病んでしまう人がそれなりにいる。

 それなら、集団の引力から逃れた先に何があるのだろうか。

 先述した漫画『凪のお暇』の主人公・大島凪は、陽キャコミュ障とは逆で、『空気』を読めるが作れないタイプである。彼女を中心に展開する『凪のお暇』のストーリーは、職場での人間関係に疲れた彼女が、田舎に引っ越し、のんびりとした日々に安らぎを得るというものだ。僕がこの作品で注目したいのは、凪がハローワークで出会った友達、坂本龍子とのエピソードである。オカルトにはまっている彼女は、凪と初めて出会ったときに、ついついパワーストーンのセールスをしてしまった。いわゆるマルチ商法である。凪も一度は拒否感をあらわにした。しかし、自らのセールス活動のせいで友達がいなくなった寂しさを訴えた彼女に心を打たれ、その後はオカルトとは距離を置きつつも彼女のオカルト好きの一面を受け入れ、二人は真の意味で仲を深めていくことになる。

 ところで、もし坂本がセールスをしたのが集団の場だったらどうなっただろうか。

 おそらく、誰かが拒絶の反応を示し、周りもそれに同調しただろう。一度、彼女に対する拒絶の『空気』ができてしまえば、彼女がどんなに自らの本音を吐露してもそれを覆すことは難しく、その場にいた全員と絶縁してしまうかもしれない。その中に、一対一で話せば凪のように受け入れてくれる人がいたとしても、である。

 お互いに理解しあう真の友情関係は、一対一の対話の中からしか生まれない。集団での関係では、どうしてもその場の『空気』に振り回され、自らが相手に対して思った考えが捻じ曲げられて何か別のものに変わってしまう。そのような場をきっかけに、友情関係が生まれるとしても、あくまで集団内で知り合った二人が、集団とは離れたところで一対一の人間関係を築いた結果であって、集団でのコミュニケーションだけでは、生まれなかった関係であろう。一対一で話すからこそ相手との心理的距離を縮めることができるのである。

 僕は集団での人間関係を否定しているわけではない。だが、依存しすぎると、かえって精神に毒になることは確かである。

 それは、かつての凪のような人間だけではなく、陽キャコミュ障タイプであっても当てはまる。周囲に疎まれやすいという状況では、ストレスがその分増えるため、集団での人間関係ばかりに依存してしまうと、それが煩わしくなり、精神を病んでしまうケースは考えられるだろう。

 繰り返すようだが、最も重要な一対一の関係を疎かにし、集団での人間関係に依存してしまうことは、大きな危険を孕んでいる。つまり、陰キャコミュ障の持つ集団での人間関係に依存しにくい特質は、誇るに値することなのだ。

 陰キャのすすめ

 僕が理想としているのは、集団でのコミュニケーションは依存しない程度にとどめ、あくまで一対一の関係を重視する生き方である。『陽キャ』の側からは、『陰キャ』とそしられるかもしれない。だが、今まで見てきたように、「『空気』を読む能力」と「『空気』を作る能力」のどちらが欠けても、集団での人間関係はうまくいかないのである。両方の能力を兼ね備えた人間は、おそらく、空気を読むべき時は読み、作るべき時は作ってうまくやっているのだろうが、そんな芸当ができる人は、かえってレアケースであるし、彼らにしろ、集団での人間関係に満足しているとは限らないはずだ。

 確かに、集団での人間関係を築くことは、一対一の人間関係につながるという点で必要なことではある。しかし、多くの人にとって、お互いに遠慮しあった結果、自分にとってメリットがないことがはっきりしているにもかかわらず、ずるずると関係を続けてしまう場合が多いのではないだろうか。

 この記事では、『陰キャ』を馬鹿にしている『陽キャ』を批判している。しかし、彼らの中にも本人は気づいていないだけで、集団での人間関係に疲れ、本心では『陰キャ』的生き方を欲している人がいるのかもしれない。この記事は、集団での人間関係に苦しむ『陰キャ』に向けて書いたものだが、もし、これをきっかけに『陽キャ』の側から『陰キャ』を見直してくれた人がいれば、望外の幸せである。