アニメ・『ラブライブ!』の作品構造

 


(本稿ではアニメ版ラブライブについてのみ触れる。ラブライブ!の他のメディアでの作品について私は全くの無知であり、その点について触れられないことを断っておきたい。そのため、私が「ラブライブ」と言った場合は特に注記がない限りアニメ版を指していることを注意に留めてほしい。)

 

 

 

   はじめに

 

 私が「ラブライブ!」を始めてみたのは、確か2015年冬の再放送のときだったと記憶している。楽曲の良さに惹かれた私は、ほんのしばらくの間だけ、曲を聴いたりアニメを見返したりを繰り返していたが、すぐに熱が冷め、劇場版が6月に公開されるときには、完全に無関心層になっていた。熱心なファンであった友人に誘われて見た劇場版も大して感動せず、ラブライブとはそれっきりになり、シリーズ二作目「ラブライブ!サンシャイン!!」にも私は全くの無関心でこの文章を書いている今に至るまで一切見ていない。

 

 劇場版を見て約三年半後のこの春期休暇、私は、ちょっとしたきっかけで久しぶりに「ラブライブ!」の再視聴を開始した。するとどうだろうか。昔見た時には全く気付かなかった「ラブライブ!」という作品が我々視聴者に何を伝えたいのかということがみるみるわかりだしたのである。「ラブライブ!」の未解決の謎とされている劇場版の女性シンガーがなぜ登場し、どう物語に関わっているのかという問いにも私は答えを出した。ネット上で私と同じ解釈をとる人を探したが、見つけられなかった。そこでこの場を借りて私の考察を披露し、私の解釈がどのような評価を受けるか試してみたい。読者の容赦のない批判をお願いする。

 

 

   第1部:ラブライブTVシリーズについて

 

   第1章 ラブライブの作品構造(1期1話~8話)

 

 まず、ラブライブの根本的なテーマとは何か、という話をしたい。


 二期制作決定直後の電撃G’sマガジン2013年8月号に掲載されたインタビューで、京極尚彦監督が1期の制作を振り返っている。インタビュアーの「この全13話で監督が一番描きたかったことはなんでしょうか?」という問いに対する京極監督の答えは、以下の通りだった。


 『第8話のサブタイトルにもなってますが、「やりたいことは」に尽きます。本人がやろうとすること、夢を目指すとはなにかというのを掘り下げたというか。教科書には載っていないけど、体感として得られるものってあるじゃないですか。それをμ’sといっしょにみなさんにも感じてほしかった。(HISTORY OF LOVE LIVE! 2、82ページ)』

 

 「やりたいこと」というキーワードを頭に入れて視聴すると、ラブライブのテーマは、「努力して競争に打ち勝ち成功する」ことでは決してないことがわかる。ラブライブは、ほとんどの回で、「①自らのやりたいことを自覚し、②内面に生じたためらいを振り切って、③やりたいことを実行し自己実現する」というストーリー線に沿って話が展開される。「やりたいことをやる」というのが、ラブライブのテーマなのだ。このメッセージを力強く視聴者に印象付けるために、ラブライブは少々複雑な構造を持っているのだが、それを今から説明したい。

 

 ラブライブの作品構造は、1期1話から9人全員がμ’sに加入する1期8話までの第一段階と、1期9話から2期8話までの第二段階、2期9話から2期13話までの第三段階に分けられる。まずは、基本となる1期1話~1期8話の構造から解説する。

 

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 上の図では、いくつかある●のうちの一つが〇に変化し、「やりたいこと」と書かれた楕円の領域と線で結ばれている。


 〇と●はμ’sのメンバーを象徴的に指していて、


〇は「自分のやりたいことを自覚し実際にそれを実行しているμ’sメンバー」


●は「やりたいことを自覚していないか、自覚しているのに、何らかの内面の障害(恥ずかしさ、プライドなど)があってできていないμ’sメンバー」


である。

 

 この図では全部の〇が一つの「やりたいこと」と書かれた楕円の領域に結ばれているが、これは〇で表されるμ’sメンバーが自分の「やりたいこと」を自覚し、実際にそれを実行している状態を表していると同時に、全く同じ「やりたいこと」を共有している状態も表している。μ’sメンバー全員の「やりたいこと」が完全に一致しているというのは、作中の世界が現実であると考えると絶対にありえないことであるが、ラブライブ世界全体を貫く約束事として理解してほしい。(後述するが、この約束事が現実ではありえないことも覚えておくとよい。)

 

 この点を理解して見るのと見ないのとでは作品の受け取り方が全く違ってくるはずだ。ラブライブでは、μ’sメンバー全員の気持ちが一つになる場面が多いが、「みんな同じ」は、「全員が〇(=自分のやりたいことを自覚し、それを実行している)の状態である」ということを指しているのである。

 

 ラブライブはよくスポ根と言われるが、多くのスポ根作品とは大きく違う点として、主人公たち「子供」「後輩」を導く「大人」「先輩」の存在が欠落していることが挙げられる。その代わりに、ラブライブではμ’sのメンバーが互いを導き、導かれていくという構図が取られているのだ。これは作品全体に共通している。ただし、特に第一段階(1期1話~8話)においては、他のメンバーを導く中心となるのは穂乃果である。穂乃果が主な主体となってμ’sメンバーとなるキャラクターを●の状態から〇の状態へと導くのが第一段階の構造である。

 

 ラブライブのストーリーが始まった段階では、μ’sメンバーとなる9人は全員●(=やりたいことを自覚していないか、自覚しているのに、何らかの内面の障害があってできていない)の状態であった。これまで説明した第一段階の構図を踏まえると、ラブライブ1期1話~3話は、穂乃果に導かれる形で、穂乃果とことり、海未の三人が●の状態から〇の状態へ変わる話とみてよいだろう。1期1話~3話が、μ’s誕生までの物語であるとすると、1期4話~8話は、μ’s完成の物語である。この間は、μ’sに加入するということは●の状態から〇の状態へと変わるということを意味すると見てよい。

 

 4話では真姫、凛、花陽が、5話ではにこが、7~8話では絵里と希がμ’sに加入するが、加入に至るプロセスは一致している。恥ずかしさやプライド、義務感などの「やりたいことの障害」にとらわれて「やりたいこと(μ’sのメンバーは全員一致している)」ができないキャラクターがいて、そのキャラクターを別のキャラクター(第一段階では穂乃果が中心)が引っ張り上げてやりたいこと(=μ’sへの加入)に導くというストーリーだ。


 先ほどの監督のインタビューに出てきた1期8話を例に挙げるなら、絵里の「やりたいこと」は「スクールアイドルをやること」、「やりたいことの障害」は、「生徒会長としての義務感やバレエ上級者としてのプライド」である。


 このストーリーの基本線は劇場版まで維持されることになるが、次の第二段階になると構造が多少変化することになる。

 


   第2章 ラブライブの作品構造(1期9話~2期8話)

 

 μ’sのメンバーが9人全員揃ってしまうと、実は重大な問題が生じる。ラブライブは、1期8話まで一貫して、キャラクターを●の状態から〇の状態に変えることで、「①自らのやりたいことを自覚し、②内面に生じたためらいを振り切って、③やりたいことを実行し自己実現する」というメッセージを強く伝え、感動を高めていた。

 

 ところが、メンバーが全員揃ってしまうと、〇の状態に変わる●の状態のキャラクターがいなくなってしまうのである。このままでは、テーマを変えるか、同じテーマの維持を貫徹するための別の方法を考えるかしかない。結局、転換点に立たされたラブライブ制作陣が選択したのは後者であった。テーマを維持するために編み出された構図が次の図である。

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 〇と●の定義は前回と同様だが、この図では、まず、〇で統一された状態から〇のうちの一部が●に変化し、そのあとで再び〇に戻って統一が再び達成されている。

 

 この構図がわかるとラブライブの様々な謎が解けて面白い。誰かが〇の状態から●の状態になると、必然的にμ’s内での意見の不統一が生まれてしまう。1期終盤のシリアス展開は「誰得」「謎」などと批判されたが、一見唐突にも見えることりの留学や穂乃果のアイドル引退宣言は、二人が●の状態に変わり、一度他のメンバーとの対立を明確化させた上で、再び〇の状態に変わることにより「やりたいことをやる」というメッセージを強く訴えることができるため、必要だったのである。


 また、あそこまで激しく対立しなくても、あるメンバーが自分の本心(=やりたいこと)とは違う行動をとってしまっているということ(=●の状態になっている)を、他のメンバーが知り、〇の状態に再び変わるよう導くという構図は、この第二段階(1期9話~2期8話)の他の多くの回で成立する。第二段階では、あるメンバーを他のメンバーが尾行するシーンが3回もあり、一見するとこれも不自然に見えるのだが、それも今説明したような構図がわかれば理解できる。●の状態に陥っているメンバーは、たいてい本心を隠しているので、それを他のメンバーに知ってもらうためには、尾行させるのが一番自然なのだ。

 

 ラブライブの世界で、暗い雰囲気になるということは、μ’sメンバーの誰かが●の状態になっていることを意味する。ラブライブで描かれる幸福観は、簡単に言えば、〇の状態が幸福で●の状態が不幸、というものなのだ。●の状態から〇の状態に変わることによって明るい雰囲気に変わっていくというのが、特にこの第二段階で典型的に見られるラブライブの基本的なストーリー線である。


 この点を踏まえると次の第三段階の展開がわかりやすくなる。

 


   第3章 ラブライブの作品構造(2期9話~2期13話)

 

 

 ラブライブは2期9話に至って、今まで一貫して取り組んできたテーマから大きく転換し次の段階に移行する。どのような転換が起こったのか、2期9話が象徴的なストーリーになっているので、あらすじを辿りたい。


 2期9話は、最終予選が行われる朝から始まるが、μ’sのメンバーが、家族や仲間と触れ合うシーンが描かれ、彼女たちが、家族の支えと応援、メンバー相互の支えに助けられて活動していることが描写される。次の学校のシーンでも友人たち生徒に助けられるシーンが描かれている。圧巻は吹雪の中最終予選の会場に向かうシーンである。海未が「私だって誰よりもラブライブに出たい」とやりたいことを宣言したそのあと、助けに来た音木坂の全校生徒が表れ、穂乃果たちは彼女らの助けで会場に到着し、μ’sの他のメンバーと合流するのである。この次に穂乃果は手伝ってくれた全校生徒にお礼を述べライブの成功を誓う。

 

 ここではっきりと示されているのは、μ’sのメンバーが「やりたいこと」ができるのは、周りの人や仲間の支えがあるからだということの自覚である。ラブライブのストーリーはここに至って、「やりたいこと」の追求の段階を超えて、自分たちの「やりたいこと」への追求が周囲の人に支えられていることを自覚する段階に移行した。次の10話では、キャッチフレーズを考えることを通してμ’sとは何かという問題への問いかけが行われるが、この回の最後で示される「みんなで叶える物語」というキャッチフレーズはまさにこの転換を示すものだ。

 

 それでは、どうして、μ’sのメンバーは、周囲の人の支えを自覚できたのだろうか?

 

 その問いの答えは、ラブライブがこれまで訴えてきた『「やりたいこと」の追求』というテーマにある。第三段階に入ると、「みんな一つ」「みんな同じ」という言葉が頻出するが、これは、μ’sメンバー全員が〇の状態(=「やりたいこと」の追求)ということを意味している。なぜなら、「みんな同じ」「みんな一つ」と言うとき、メンバーの誰かが●の状態であるときのような暗い雰囲気が一切ないからである。このことから考えて、メンバー全員が〇の状態にあってはじめて、周囲の人の支えを自覚する段階に移行できたと考えてもよいのではないか。周囲の人に支えられていることを自覚し感謝する状態になるためには、「やりたいこと」の追求ができていることが必須条件なのだ。

 

 

 第三段階の展開を考えると一つの謎が解ける。なぜ穂乃果が生徒会長になったかという問題である。1期で絵里が務めた生徒会長の職は、絵里の「やりたいことの障害」となる義務感を生み出し、どこかマイナスなイメージが付いたものだった。そのため、私は穂乃果が生徒会長になったのがなぜなのか、2期の最終回を見るまでずっと疑問だったのである。私なりに考えた理由を挙げていこう。

 

 まず第一に、この第三段階の展開では、穂乃果の生徒会長という設定が大変役に立っているということが挙げられる。2期7話のように穂乃果が生徒会長として学校に対する目に見える貢献をすることで、全校生徒が助けに来るという展開に説得力をもたらし、「周囲の人に支えられていることへの自覚と感謝」というメッセージ性を強めることになる。また、13話でも生徒会長の送辞という形で穂乃果がラブライブという物語の総括をするが、これも生徒会長という立場あってのことだろう。


 また、義務感にとらわれていた絵里とは違う生徒会長の在り方を見せるという理由もあるだろう。穂乃果は、生徒会の仕事をサボっても真剣にやめたいと思うことはなかった。「生徒会の仕事を責任をもって行う」というのも、穂乃果の「やりたいこと」なのである。もし7話で面倒だからと美術部との揉め事を放置していれば、穂乃果は●の状態になっていただろう。


 義務感にとらわれても、義務を放置しても●の状態になる。普段は生徒会の仕事をサボることもあるが、いざ、真剣に取り組まなければならない事態になれば、自らでどうすればよいか考え、問題の解決のために行動する。これが、絵里とは違う穂乃果のやり方なのだ。


 現実の社会で生きるわれわれには、常に果たさなければならない義務がある。課題から逃げない穂乃果のやり方から、普段さまざまな義務に直面するわれわれも学ぶところがあるのではないかと私は考えている。

 


    第4章 テレビシリーズの総括

 

 

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 私が「ラブライブ!」のここまでの話で最も素晴らしいと思う点は、「やりたいことの障害」に焦点を当てたことである。


 単に「やりたいことをやる」というだけの話であれば、そのテーゼをそのまま現実に適用すると、やりたいことだけをやって破滅するなんてことにもなりかねない。ところが、ラブライブでは、まず不幸な状態になるということは、必ず「やりたいことの障害」と本当の「やりたいこと」を自覚できていない状態(=●の状態)になることと同義である。

 

 「やりたいこと」を追いかけていると自分では思っていても、心にもやもやがあるという時点で自分が「やりたいこと」だと思っているものは、実は本当の「やりたいこと」ではないのである。1期12~13話で、ことりは自らの「やりたいこと」を実現するために自らの意思で留学しようとするが、ことりは「やりたいこと」を今から実現しようというのに気分が暗かった。実は留学はことりの本当に「やりたいこと」ではなく、μ’sで活動するという本当の「やりたいこと」の実現を阻む「やりたいことの障害」であったからである。


 「やりたいこと」の追求とは、「やりたいこと」を貫くということではない。まず「やりたいことの障害」を見つけることから始まり、その都度障害を乗り越え、本当に「やりたいこと」を日々更新し実行する営みなのだ。

 

 

 

    第2部:ラブライブ劇場版について

 

 

   第1章 夢と現実を行き来するストーリー

 

 

 私が、ラブライブ劇場版を見た第一印象は夢か現実かわからないというものだった。

    

 そもそも、1期や2期の時点でもラブライブは、現実か非現実かわからないような描き方をされている。1期、2期ともに1話からミュージカルシーンが出てくるし、非現実的に思える展開が多い。

 

 非現実的なものと言えば、一期からずっと貫かれてきた『μ’sのメンバーの「やりたいこと」はみんな同じ』という約束事はその最たるものである。先に述べたように、ラブライブの典型的なストーリー展開は、「やりたいこと」を追求できなくなったμ’sメンバーが、その「やりたいこと」を実は共有している他のメンバーの導きで「やりたいこと」を追求できるようになる、というものだ。

 

 1期1話の穂乃果が雨をやませるシーンや、2期9話の大げさな吹雪のあとに全校生徒が助けにくるシーンのような非現実的な展開は全員が「やりたいこと」を自覚し、「やりたいこと」の共有が完全になったシーンで行われることが多い。こういったシーンは、「やりたいこと」の共有が、非現実的な嘘であることを示唆しているように私には思われる。そういえば、2期12話のラブライブ決勝で歌われる『KiRa-KiRA Sensation!』は、「みんなで叶える物語 夢のストーリー」と歌っていた。ラブライブの世界は、「やりたいこと」の共有という嘘のルールが働く、本当なのか夢なのか分からない世界なのである。「やりたいこと」の共有が嘘の約束事であるということはラブライブ劇場版を読み解くうえで最重要のポイントになる。

 

 さて、ここまで1期と2期の時点でも非現実性が強調されていることを述べてきたが、劇場版では、さらにそれ以上に非現実性が強調されているのである。いくつかポイントを箇条書きであげていこう。

 

・ミュージカルシーンが99分間に3回と非常に多い。

 

・夢のモチーフが多くの場面で登場する。にこの夢もそうだし、空港での穂乃果たちがこれは夢なんじゃないかと言い合うシーンなどは、どこからが夢かという話題で穂乃果が「もしかして学校が廃校に!のあたりから!?」と、この後で私が結論を出す劇場版ラブライブの本質に触れるような発言をしている。

 

・さらに、劇場版の挿入歌はすべて、歌詞の中に「夢」という単語が入っている。

 

・そして極めつけは最後のライブ(僕たちはひとつの光の方)のシーンである。観客の姿がなく、幻想的な空間で歌われ現実感が全くない。その上、ご丁寧にも蓮の花の上で歌われており、非現実的な感じを強調している。このままこの曲の考察を続けたいが、この部分の考察は最後に回したい。

 

 以上のように、ラブライブ劇場版では作中の物語があくまで非現実的な物語であることが意識的に示されている。もっと踏み込んで言えば嘘の混じった物語ということである。このことを指摘してここは次の話につなげたい。

 

 


   第2章 メタ物語としてのラブライブ劇場版

 

 

 ラブライブ劇場版は、虚実ないまぜな物語になっているだけではなく、メタ的な物語も混ぜ込まれている。これは各所で言われていることだが、ラブライブ劇場版は、今までのアニメ版ラブライブの歴史と捉えることができるのだ。例を挙げていこう。

 

・第二回ラブライブμ’sを解散にするつもりだった。


 解説:一期も作った時点ではあれで終わりのつもりだったと思われる。実際にシリーズ構成・脚本の花田十輝は、「一期が終わったら、このプロジェクトは終わります!」というような雰囲気があったと述べている。(劇場版オフィシャルBOOK、29ページ)

 

・人気が出たため突然ラブライブのドーム大会実現のために海外に行って欲しいと頼まれる。


 解説:人気が出たため、ラブライブ二期の制作が決定する。ドーム大会実現というのはμ’sのドーム公演とイコールで、現実のラブライブというコンテンツの発展を指していると思われる。つまり、ラブライブ・プロジェクトの発展のために二期を制作したということである。

 

・海外のライブでμ’sの人気が急上昇する。


 解説:二期でラブライブの人気がさらに急上昇する。

 

・事情を知らないにわかファンが大量発生する。μ’sメンバーは困惑する。


 解説:このシーンはすごい皮肉が効いたシーンだと思う。ラブライブは二期放映後、異常ともいえる人気を得るが、制作陣にとっても思いもよらないことだった。なお、このシーンが現実のμ’sの人気急上昇とリンクしていることは、劇場版オフィシャルBOOKの19ページに示唆されている。

 

・ファンはμ’sの活動継続を望んでいて、ファンとスクールアイドル業界を含む“みんな”がスクールアイドルを盛り上げるために活動継続を望んでいることが、理事長から伝えられる。穂乃果たちはμ’sを継続するか悩むことになる。

 
 解説:現実でもファンはμ’sが続くことを希望していて、ファンやアニメ業界を含む“みんな”もアニメ業界を盛り上げるためにラブライブを続けることを希望する。制作陣もμ’sを継続するか悩んだのかもしれない。

 

・A-RISEの活動継続の決意


 解説:μ’sの活動継続という選択肢にも正当な根拠がある。同様に現実でもμ’sを終わりにしないといけないということはない。

 

・でもμ's解散は変えない。


 解説:それでもμ'sの物語は終わりにする。ここは今までの内面の「やりたいことの障害」を乗り越えて「やりたいことをやる」っていうテーマ通りでもある。μ’s解散が彼女たちの「やりたいこと」で、μ’s存続を求める“みんな”からの圧力が『「やりたいこと」の障害』である。

 

・その代わりに最後にライブ(SUNNY DAY SONGの方)をやる。


 解説:最後に劇場版をやる。劇中でμ’sが最後にスクールアイドルみんなでライブをやる理由は、スクールアイドルの発展のためであった。この劇場版も、ラブライブというコンテンツの発展のために作ったのである。現にこの劇場版は、無印ラブライブの後継シリーズ、『ラブライブ!サンシャイン!!』のヒットにつながっていった。

 

 

 以上のように劇場版ラブライブの表のストーリーは、実は現実のラブライブ・プロジェクトの展開をなぞったものである。私は、その表のストーリーがあくまでラブライブ・プロジェクトの展開をなぞり、なぜ劇場版を作ったのかを説明するだけのものにすぎないと考えている。制作陣が私たちに伝えたいことが込められているのは、背景にある裏のストーリーなのだ。まずは、ラブライブ劇場版の大きな謎である女性シンガーと水たまりのシーンが何を伝えたかったのかという問題について考え、それから、「SUNNY DAY SONG」と「僕たちはひとつの光」のライブのシーンの考察に入りたい。


 ここまで示してきたようにラブライブは、虚実ないまぜの物語である。そこには現実に対する皮肉も込められているのである。一期、二期の構造を踏まえながら、ここを踏まえて議論を進めたい。

 

 

   第3章 女性シンガーと水たまりの謎

 

 

 女性シンガーの正体については、劇場版のオフィシャルブックに監督の京極尚彦氏と脚本の花田十輝氏のインタビューで言及されている。京極監督は、答えをかなりぼやかしているのだが、花田氏は、「穂乃果が己の分身というか、未来の一つの形に出会う」とはっきり述べ、「”未来を描くこと”」は「絶対にやらなくちゃいけない」と強調している(「」の引用はいずれもラブライブ! The School Idol Movie 劇場版オフィシャルブック 27ページより)。


 それでは、彼女が穂乃果、あるいはμ'sメンバーたちの未来を示唆しているとして、その役割とは何だろうか?それは、ラブライブの約束事が壊すことである。先ほど述べたようにμ’sの物語には、『みんなの「やりたいこと」は"本当に"同じ』という約束事がある。μ'sが解散するということはこの約束事が壊れるということなのだ。

 

 ここで穂乃果が女性シンガーとニューヨークで会ったシーンを思い出してほしい。「昔はグループで歌っていたが解散になった、当時はどうしたらいいかわからなかった」と話す女性シンガーに対して穂乃果は、「それで、どうしたんですか!?」と強い口調で問いかける。穂乃果が知りたかったのは、μ’sを解散にすべきかどうかではない。μ’sが解散した(約束事がなくなった)あと、どうすればいいかということだったのだ。穂乃果に対する女性シンガーの返答はこうだ。

 

「今まで自分たちがなぜ歌ってきたのか、どうありたくて何が好きだったのか、それを考えたら、答えはとても簡単だったよ。」

 

 そう。これまでのμ’sの物語を考えれば、答えはとても簡単なのである。

 

 なぜ歌ってきたのか?『やりたいからです!』(1期3話、穂乃果)


 何が好きだったのか?『歌うことが大好きです!』(2期13話、穂乃果)

 

 2期11話では、こんなに素晴らしい仲間に巡り合えたのに、と1人μ’s解散に異を唱えるにこに対して真姫が、「だからアイドルは続けるわよ!」と泣きながら訴えている。たとえ女性シンガーのように周りにμ'sメンバーのような仲間がいなくても、「やりたいこと」の追求をやめないのが答えなのだ。

 

 このことをさらに意識させるのが、次に女性シンガーが登場した場面である。スクールアイドルを盛り上げるためにμ’sが必要であると世間から活動継続を望まれ、A-RISEの活動継続への決意を聞いた穂乃果は、μ’sを継続させるか悩んでいた。そんなときにあらわれたのが女性シンガーである。彼女は、穂乃果に「答えは見つかった?」と問いかけ、「飛べるよ」と言葉をかける。その直後穂乃果が目にしたのは、あの劇場版冒頭のシーンを思わせる水たまりであった。「飛べるよ!いつだって飛べる!あの頃のように!」そう女性シンガーが呼びかけ、穂乃果が走り出す。穂乃果が水たまりを飛び越える間に、絵里たち三年生メンバーのμ’s解散の決意のメールが読み上げられる。穂乃果も彼女らと同様にここで解散を決意したのである。

 

 「飛べるよ!いつだって飛べる!あの頃のように!」は検討が必要なセリフである。


 まず”あの頃”で示唆される冒頭の水たまりのシーンをおさらいしよう。


 このシーンでは、穂乃果は孤独である。なぜなら、ここでは、『μ’sメンバーの「やりたいこと」は同じ』という約束事は働いていないからである。水たまりに諦めずに挑戦しようとする穂乃果に呼びかけることりも、「無理だよ、帰ろう!」と呼びかけているのであって、穂乃果と「やりたいこと」を共有し助けあって一緒に実現しようと試みるμ’sの仲間とは全く違い、穂乃果の「やりたいことの障害」を作りかねない他者として存在している(ただし、解散前のμ’sでもμ’sメンバーが●の状態にあるときは、「やりたいことの障害」を作りかねない他者となりうる。)。

 

 そして、これまでのμ’sの物語の『内面の「やりたいことの障害」を乗り越えて「やりたいこと」を実現する』という図式に当てはめるなら、このシーンでのことりはむしろ「やりたいことの障害」を象徴したものであると言える。「あの頃」のシーンは『μ’sメンバーが全員「やりたいこと」を共有している』という嘘の約束事が存在しない世界を象徴していたのだ。


 次に考えたいのは「飛べるよ!」という呼びかけである。この呼びかけは、裏を返せば、穂乃果が「これから私は飛べないんじゃないか」と不安を抱いていることを示している。最初に女性シンガーが登場したシーンにも穂乃果はμ’s解散後の不安を表明しているが、それと組み合わせると穂乃果の不安は以下のようなものであろう。

 

 「μ’sが羽ばたけたのは、「やりたいこと」を共有したメンバーが、その実現のためにお互い助け合い、「やりたいことの障害」に立ち向かえたから。μ’sがなくなったら一人で、「やりたいこと」を実現しないといけない。もしかしたら「やりたいことの障害」に負けて「やりたいこと」を捨ててしまうかもしれない。やっぱり、自分にμ’s(=仲間との「やりたいこと」の共有という嘘)はまだ必要なのかもしれない。「やりたいこと」を一人で実現できるのは、あの水たまりを飛び越えた子供のころだけだったのかもしれない。」

 

 穂乃果の(あるいはμ’sのメンバー全員の)未来の姿である女性シンガーの人生が示したのは、一人でも「やりたいこと」の実現は可能だということである。穂乃果はこうしてμ’s解散を決意した。あの『みんな同じ』という嘘の約束事はこの時点で壊れたのである。これから穂乃果は一人で「やりたいこと」を追求しないといけないのである。

 

 

   第4章 『SUNNY DAY SONG』について

 


 それなのにその後のライブ(SUNNY DAY SONG)の前日準備のシーンでは、μ'sだけではなく、全員が「思いを共にしたみんなと一緒に」歌うと穂乃果は宣言する。私は、最初これを見て強い違和感を感じた。今まで、「やりたいこと」の共有という嘘の約束事はμ’sのメンバーだけのものであった。テレビシリーズのラブライブでは、大量の描写を使ってこの嘘を本当であるかのように見せかけてきたのである。だから、μ’s以外に「やりたいこと」の共有という嘘は通用しない。μ’s以外も含めた「思いを共にしたみんな」が「一緒に」歌うというのは、今までのラブライブから見ても非常に不自然なのだ。

 

 どうしてμ’s最後のライブがこんな風になったのか。私の考えではμ’sの、「やりたいこと」の共有という約束事が本当は嘘だったのだということを印象付けるためである。ラブライブという作品は、今までは嘘だとわからないように嘘をついてきたのであるが、最後の最後に嘘だとわかるように盛大に嘘をついたのだ。これがμ’sの最後のライブと穂乃果は宣言しているが、これはμ’sの「やりたいこと」の共有という幻想はこれで最後にしようという宣言なのである。

 

 ライブ当日、絵里の呼びかけに応じて、穂乃果以外のμ’sメンバーは会場まで競争を始めるが、穂乃果はひとり立ち止まる。水たまりのシーンを彷彿とさせる花びらをつかんで見つめたあと、穂乃果は走り出す。“一人”で楽しそうに走る穂乃果は、女性シンガーの言葉を反芻していた。穂乃果はここで一瞬、「μ’sはみんな同じ」という嘘の世界から離れて、嘘の約束事のない本当の世界に戻っている。ここのシーンは穂乃果がμ’s解散後の不安から解放され、本当の世界でもやっていけることを示しているのである。


 海未の呼びかけで穂乃果は我に返るのだが、そこに現れた光景は、画面に入りきらないほどたくさんいる“同じ”衣装をまとったスクールアイドルたちの姿だった。ここは一見すると、非現実的な自分の世界から海未の言葉で現実の世界に引き戻されるというシーンなのだが、実際は、本当の世界から嘘の世界へと引き戻されるという構図になっている。穂乃果はここで「みんなが同じ」という嘘の約束事が支配する世界に戻ってきたのである。そして、穂乃果は大勢のスクールアイドルたちの前で「伝えよう!スクールアイドルの素晴らしさを!」と宣言、『SUNNY DAY SONG』のライブが始まる。

 

 さて、この嘘の世界で歌われる『SUNNY DAY SONG』とはどんな曲なのか。冒頭の歌詞だけ引用しよう。

 

楽しいねこんな夢
えがおで喜び歌おうよ
それが始まりの合図
一歩ずつ君から 一歩ずつ僕から
どこかへ行きたい心のステップ

 

 最初からいきなり夢という単語が出てくる。そしてその“夢”を歌おうと歌詞では言っている。


 つまりこの曲は夢=本当ではないものについて歌った曲なのである。


 それに加えて重要なのが、この曲が、穂乃果の発言にあるように、スクールアイドルの素晴らしさを伝えるはずの曲だということである。


 そして、この曲が歌われた場面は、『みんな「やりたいこと」は同じ』という嘘の約束事が、スクールアイドル全体に適用されている場であった。この場面のスクールアイドルの世界は『「やりたいこと」の共有』という嘘の約束事が支配する世界であるという点でμ’sの世界と等しい。そもそも、スクールアイドルとは何かということはこの劇場版で初めて出てきた問題である。この曲が歌っている、スクールアイドルの素晴らしさというのは、『「やりたいこと」の共有』の物語の素晴らしさであり、『「やりたいこと」の共有』によって成り立っていたこれまでのμ’sの物語の素晴らしさということでいいのではないだろうか。

 

 私は、このように解釈すると歌詞の意味がわかるような気がする。μ’sがいかに虚構の存在とはいえ、μ’sのメンバーたちは、μ’sに入ることによって、「やりたいことの障害」を克服し、「やりたいこと」を実現することができたのである。彼女たちにとって、そしてラブライブの物語に勇気づけられた視聴者である私たちにとってもμ’sは「やりたいこと」を追求する上で勇気をくれる存在である。だが、これまで述べたように『「やりたいこと」の共有』という嘘はこれで最後になる。これからμ’sのメンバーはそれぞれ、「やりたいこと」の追求に一人で取り組まなければならない。したがって、この曲は『「やりたいこと」の共有』という嘘で支えられたμ’sの物語への鎮魂歌なのである。

 

 

   第5章 『僕たちはひとつの光』について

 

 

 『SUNNY DAY SONG』がμ’sの物語の鎮魂歌なら、μ’sの最後のライブの曲兼劇場版のエンディングテーマである『僕たちはひとつの光』は、μ’s解散後のμ’sメンバーの決意を歌った曲である。この曲を理解するには、このライブがあった時のμ’sメンバーの状況を知る必要があるが、直接的な描写はないものの、大体の推測はできる。先ほども述べたが、2期11話では、こんなに素晴らしい仲間に巡り合えたのに、と1人μ’s解散に異を唱えるにこに対して真姫が、「だからアイドルは続けるわよ!」と泣きながら訴えている。おそらくμ’sがなくなった(『「やりたいこと」の共有』という嘘の約束事がなくなった)あとも各々が何らかの形でアイドルを続けていたと思われる。

 

 そして、『僕たちはひとつの光』の前のシーンで、雪穂と亜里沙がアイドル研究部の新歓活動をしているが、彼女たちは制服のリボンの色から判断して三年生である。彼女たちが三年生ということは、μ’sのメンバーが全員音ノ木坂学院を卒業したいうことと等しい。したがって、あの最後のライブは、全員の卒業を機に改めてラストライブを行ったものと思われる。

 

 全員が卒業したのならもう一度μ’sを再結成すればいいではないかと思う人もいるだろうが、私は次のように考えている。彼女たち自身にはμ’sを解散するに足る理由はない。実際、A-RISEはスクールアイドルではなくなった後もアイドル活動を続けている。A-RISEのように卒業後も、同じ9人のμ’sとして活動を継続する道もあったはずなのだ。

 

 μ’s解散の本当の理由はメタ的な視点で見ないとわからない。彼女たちがμ’sを解散させなければならなかったのは、μ’sを支えていた『やりたいこと」の共有』という約束事が嘘だったからである。彼女たちは、嘘の約束事を終わらせるために、最後に、三年生メンバーが学校を卒業したらμ’sを終わらせたいという意思を共有したのだ。μ’sが解散しても彼女たちの「やりたいこと」が変わるわけではないので(ただしそれぞれの「やりたいこと」にずれは生じると思われる)、アイドルを続けるのは不自然ではないが、最後のライブの時点では、もう彼女たちは、μ’sから離れて、女性シンガーのように一人で各々の「やりたいこと」を追求している段階に入っていることは確かである。それを踏まえて『僕たちはひとつの光』のシーンを見てみよう。

 

 前述したようにこの曲は「夢のような」とでも形容できる大変幻想的なステージで歌われた。μ’sという存在が嘘だということを強調するためである。さらにそのステージで歌われる曲のタイトルが『僕たちはひとつの光』なのである。「僕たちはひとつ」というのはμ’sを支えた嘘の約束事であった。これから歌詞の検討に入るが、ここでも、あの嘘の約束事は当然歌詞の内容を考える上で重要なポイントになってくる。

 

 

 まずは、『僕たちはひとつの光』の歌詞を一部引用して解釈してみたい。この歌詞をよく読むと、ラブライブ劇場版が最後に伝えたかったメッセージがよくわかるのである。
まずはサビ以外の歌詞について私の解釈を紹介し、最後にサビについて検討する。少々長くなるがお付き合い願いたい。

 

忘れない いつまでも忘れない
こんなにも心がひとつになる
世界を見つけた喜び(ともに)歌おう
最後まで(僕たちはひとつ)

 

 解釈:こんなにも心がひとつになる世界(=μ’sの物語)を見つけた喜びをμ’sのみんなで歌おう(=共有しよう)。


 “最後”までμ’sのメンバーはひとつ(だが、この最後のライブが終わってしまうとひとつではなくなる=「やりたいこと」の共有はなくなり、ずれが生じる)


 ここで嘘の存在であるμ’s(=「やりたいこと」の共有)を讃えているのは、やはり、彼女たちが「やりたいこと」を共有させるμ’sという装置のおかげで、「やりたいことの障害」を乗り越えて「やりたいこと」を実現できたからである。

 

光を追いかけてきた僕たちだから
さよならはいらない
また会おう 呼んでくれるかい?
僕たちのこと
素敵だった未来に繋がった夢
夢の未来 君と僕のLIVE&LIFE

 

 解釈:僕たちが追いかけてきた“光”というのは、ラブライブの今までの内容を考えると当然「やりたいこと」を指す。光=「やりたいこと」とすると、タイトルの『僕たちはひとつの光』というのは、μ’sがやりたいことを共有していることを指すのではないか。
 また、直後の「さよならはいらない また会おう 呼んでくれるかい? 僕たち(=μ’s)のこと」と観客(視聴者)への呼びかけ形式になっていることから、このパートが観客(視聴者)に向けた歌詞だとすると、以下のような解釈になる。


 ずっと「やりたいこと」を追いかけてきた私たちμ’sメンバーは、μ’sが解散しても(「やりたいこと」の共有がなくなっても)、「やりたいこと」を追いかけることをやめない。だから、私たちはμ’sの解散を悲しまないで前向きに生きていきたい。(ここは「さよならはいらない」が呼びかける対象が観客だけでなくμ’sメンバー相互にもかかっていると解釈している)


 ラブライブは、「やりたいこと」があっても一歩を踏み出せない人に向けたアニメである。


 「また会おう 呼んでくれるかい? 僕たちのこと」と呼びかけるのは、「やりたいこと」があっても一歩を踏み出せなくなったとき、μ’sの物語を思い出してほしいという観客に向けたメッセージだと考えたい。


 夢はこの劇場版の重要なキーワードの一つである。ここでは、「将来の夢」と「虚構であるμ’sの物語」の二つを指していると思われる。将来の「やりたいこと」を持ち、虚構の存在であるμ’sに導かれて、「やりたいこと」を実現できた。また、夢の未来は「やりたいこと」を実現した未来を指していると思われるが、君と僕のLIVE&LIFEは、アニメ1期8話に登場し、μ’sが9人そろって初めてのライブで歌われた『僕らのLIVE 君とのLIFE』である。『僕らのLIVE 君とのLIFE』の歌詞はまさに「やりたいこと」を実現するという内容であるため、ここも「夢の未来」と同様の意味だと思われる。

 

 

そして、サビが下の内容である。

 

小鳥の翼がついに大きくなって
旅立ちの日だよ
遠くへと広がる海の色暖かく
夢の中で描いた絵のようなんだ
切なくて時をまきもどしてみるかい?
No no no いまが最高

 

 解釈:まず、「小鳥の翼がついに大きくなって」というのは、1期3話で歌われたμ’sとして最初の曲である『START:DASH!!』の「うぶ毛の小鳥たちも いつか空に羽ばたく 大きな強い翼で飛ぶ」という歌詞を受けたものである。


そしてその次の「旅立ちの日だよ」という歌詞にはそれまで小鳥が巣によって守られ成長してきたというニュアンスだが、この巣とは言うまでもなくμ’sという虚構の装置である。


 『START:DASH!!』のことも含めて考えるとラブライブの物語がどんな物語なのかはっきりする。

 

 μ’sのメンバーはみな「やりたいこと」を実現できなかった(うぶ毛の小鳥であった)。そこに『「やりたいこと」の共有』という約束事が適用されるμ’sという装置(小鳥にとっての巣)が表れた。その力によってμ’sのメンバーは「やりたいこと」を実現した(小鳥は成長した)。しかし、μ’sという装置は虚構のものなので、永遠のものではなく、「やりたいこと」を実現したら(成長したら)失わなければいけない運命にあった。成長したμ’sのメンバーは、μ’sという装置を捨て(成長した小鳥は巣を飛び出し)、一人で「やりたいこと」を追求しなければならない(旅立たなければならない)。

 

 こうして書いてみるとまるで神話のようである。そういえばμ’sは9人の女神だと希が言っていた。ラブライブが虚構の物語であることは、9人の女神というモチーフからも示されていたのかもしれない。ここからもラブライブが初めから虚構の物語として作られていることを再確認できた。

 

 「遠くへと広がる海」についてであるが、ここは最初聴いたとき、大きくなった小鳥が向かう先を指すと私は考えた。しかし、暖かいという形容詞がわざわざ海に付いていたり、海を見て「切なくて時をまきもどしてみるかい?」という流れがあるため、小鳥が旅立った後、自分たちが育った巣がある方向にある海を見ている場面を思い浮かべることにする。ここは、「遠くへと広がる海」=「昔一緒だった暖かい海のような包容力のあるμ’s」と読み替えてみたい。

 

 「夢の中で描いた絵のようなんだ」は、夢というワードからμ’sを象徴しているため、ここもμ’sの物語を想起しておきたい。μ’sメンバーがともに過ごした日々を思い返しているのである。

 

 さて、この曲の一番のキモである「切なくて時をまきもどしてみるかい? No no no いまが最高」というサビの最後の2行である。まず、この曲が歌われたのはμ’s解散から2年ほどたち、μ’sのメンバー各人が、それぞれ固有の「やりたいこと」を追いかけている状態にあるときであることを思い出してもらいたい。「時をまきもどす」とは、『「やりたいこと」の共有』が働くμ’sとして活動していたころに戻るということである。そのため、「No」を突き付けている対象は、μ’sの活動継続という想像である。したがって、「いまが最高」の“いま”とは、μ’sとして最後の活動をしている“いま”ではない。μ’sを解散し、『「やりたいこと」の共有』という嘘の約束事を捨て、それぞれがそれぞれ違う「やりたいこと」を追いかけている“いま”なのだ。

 

 

 

   終わりに

 

 

 ここまで長々と書いてきたが、ラブライブ劇場版が私たちに伝えたかったメッセージを簡単に要約すると以下のようなものになると思う。

 

μ’sのような志を完全に等しくする仲間は現実にはいない。一人でも「やりたいこと」を追求し続けろ。』

 

 

 最後に、ここまでの議論の要諦を簡単にまとめたμ's解散前と解散後を比較した表を貼ってこの文章を締めたい。まだ書きたりないところがあるが、質問などは、このブログのコメント欄や、ツイッター(@taikai_shaか@kurfla_taicir)にお願いしたい。文章を書くのがあまり上手ではなく、読みづらい点があったら、この場を借りてお詫びする。このような駄文を最後まで読んでくれた方がもしいれば、感謝の念に堪えない。

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