熊野寮に移りたい


ここ2、3日レポートに全く手がつかない。やろうとは思っているのだが、どうしても進まなくて、ただただ辛い。この文章もレポートを放棄して書いている。単位は全然大丈夫ではない。

 


今年度はずっと鬱*1に苦しめられていた。5月なんてあまりにもきつすぎて2週間ほど実家に帰ったくらいだ。その後も慢性的な鬱状態から抜け出せず、単位はボロボロ、留年の可能性が日に日に高くなってきている。

 


医学上でも僕の経験上でも、鬱は環境に大きな原因があることが多い。今と同じような鬱に苦しんでいた高校時代、敵意を向けてくるような人がいるクラスから、そうではないクラスに変わった時に嘘のように鬱が消えていったのを思い出す。高3、1浪の時は比較的おさまっていた鬱が再び酷くなったのは、大学に受かって京都に来てからだ。それ以来、正体の見えないものにずっと苦しめられている。一体僕は、何でこんなに辛いんだろう。

 


今回は、高校時代と違って、明らかに人間関係が主な原因ではない。退会者の会を立ち上げて以降('18年11月〜)は、気の合う人たちに囲まれて、対人関係面では幸せな大学生活を送ってきたつもりだ。それなら大学の授業は?それも一因ではあるだろうが、変えようがないことなのでどうしようもない。それに、問題なのは義務や課題がこなせない状態に陥っていることであって、授業に付いていけないという話をしているのではない。

 

では、何が僕を苦しめているのか。

 


僕の出した答えは、「一人暮らし」という状況だ。これは僕の主観だが、自らの行為は他者との関係と重なることで、初めて意味づけが可能になる。関係を断たれてしまった状態で行為することは、空虚なものを掴んでいるようなものだ。一人暮らしは、京都に行くまで夢想していたような、自由に何でもできるような場所なんかでは決してなかった。行為の意味が奪われることで、同時にその楽しさも奪われてしまう場所だったのである。

 


例えば、僕は受験期によくアニメを見ていたが、いつも、アニメを見ないで勉強しろと親に言われないか怖れていた。今日はたくさん見たからこれくらいにしよう、と自ら制限をかけていたのを思い出す。当時は家族の目が煩わしく、一人暮らしに憧れていた。


ところが、京都で一人暮らしを始めると、以前感じていた楽しさが一気に薄らいでしまったのである。アニメや漫画を見てもすぐ退屈になり、勉強もせず、スマホツイッターまとめサイトばかりを見ている日々。次第に虚無感が募って精神がすぐに限界に達する。


その果てに、嫌になって帰省することがたびたびあった。長い休みの時はすぐに帰ったものだ。そして、実家でアニメや漫画を見るとこれが本当に面白かったりする。嘘だと思うかもしれないが、同じ作品でも感じが全然違う。

 

家族の目は、アニメを見る上で不自由さを生むが、その制限の中でアニメを見るのが楽しい。家族に見られていることがいい意味で緊張感を生んでいるのである。人がいる中で見る、人の不在の中で見る、どちらの場合でも、見るという行為に人との関係が重なってきていて、きっとそれが、僕の感覚になんらかの影響を与えているに違いない。

 


帰省中と同じことを僕は別の場所でも体験した。先月の熊野寮祭の時だ。ある用事で長い間待たされたことがあったのだが、その間、僕は熊野寮の食堂でずっと漫画を読んでいた。周りの寮生が気になっていたが、その中での読書体験が本当に心地いい。いつもなら感じるような疲れもなく、するすると読み進めることができる。当時の僕は、家で積ん読中の漫画がどうしても読めないことで悩んでいた*2ので、場所が違うとこんなに変わるのかと驚いた。結局その時は途中までしか読めなかったのだが、直後にその漫画を全巻購入して読むことになった。熊野寮の環境が僕の無気力に喝を入れてくれたのである。

 


僕が熊野寮に移りたいと思うようになったのはこの頃からだ。思いを募りに募らせ、もう今は、狸の皮算用で何を持っていくか考えてばかりいる。入寮選考は2月末から始まるらしい。アニメのDVDや漫画は喜んで共有スペースに持っていくし、何と僕はマルクスの『資本論岩波文庫版も全巻持っている。*3どうにかして入れさせてもらえないだろうか。*4

*1:ここでは、①希死念慮が出てきて②義務・課題をこなすのが難しい状態くらいの意味。うつ病と直接な関係はない。

*2:僕は京大漫トロピーの会員なので、いつもなんとなく漫画を読まなくちゃと思っている

*3:たしか、この前寮玄関の中核文庫を見たら『資本論』は置いていなかった。熊野寮中核派に限らず、マルクス主義を勉強している人が多そうなので勉強会があったらぜひ僕も参加したい。

*4:熊野寮の選考は、特別選考を除けば抽選で行われるので賄賂は通用しない。