ASD当事者の僕が、内海健『自閉症スペクトラムの精神病理』を読みながら回想を書く②(高校編/ツイッター編)

 

nakanoazusa.hatenablog.com

 前編↑

 

 高校時代の僕はツイッター一色だった。特に高1から高2にかけてのハマり具合は酷い。授業中も隙さえあればツイッター。休み時間も家に帰っても本当にずっとツイッターばかりやっていた。

 

 前回の記事で、僕が同質な自分の世界を保つために他者の志向性を排除していった話をしたが、その傾向は高校時代にもそのまま引き継がれた。ただし、ツイッターを舞台にして、である。当時、周囲の世界の他者性はいよいよもって強くなり、現実世界にはどこにも自分の世界(自分と地続きの世界)を見いだすことができなかった。周囲の環境世界は他者性によって完全に占領されていたのである。それでは僕は何をしたか。他者性を受け入れ、適応のための努力をしたのだろうか。違う。僕は現実をまるごと全部否定して逃げたのだ。逃げ込んだ先がツイッターの世界だったわけである。

 

 これから、ツイッターの世界で、僕がどのような体験をしたかを語っていく。だがそのために、まずは、高校に入る前の僕が趣味とどう付き合ってきたかという話をしたい。ASD者が自他未分の世界から自己を分離させようとする際、特定の対象や同じパターンにしがみつく傾向がある*1。同じものの与える安心感や反復のリズムによってそこに固着してしまうという。僕の場合は、この傾向が、中学~高校時代に特に強かった。何か「これが自分は好きなんだ」と確信できるようなものがないと落ち着かず、見つけてはのめり込み、飽きてはまた探す。野球にハマれば、ひいき球団の試合は全試合全時間欠かさずチェックした。漫画にハマれば、あらゆる関連グッズを買い漁り、漫画本編だけでなく資料集も読みあさる。こういった行動は、対象との完全な一体化が目標であって、対象について自分の知らないことがあると、とにかく落ち着かなかった。おそらく定型者と大きく違う点は、対象に飽きると、その瞬間に全くの興味を失ってしまうことだろう。僕が求めているのは自己と同一化した、自他を分離するための核の役割を果たしてくれるものであって、単なる趣味は必要なかったのである。

 

 そんな僕も、やがてアニメ(特に萌えアニメ)の世界を知ると、これまでハマっていたものを全て捨てて没頭していく。「萌えキャラ」文化とASDは非常に相性がいい。かわいいキャラは即物的な快感を与えてくれる。そこでは、ASDが苦手とする状況から離脱して俯瞰して見る能力*2は必要ない。自分とキャラが直接繋がる世界にただ浸っていればよいのである。ところが、ただキャラを即物的に消費しているだけでは、自己の核になりうる対象は見つからない。そこで、しばらくすると、何か中核になるような対象が欲しいと強く思うようになった。

 

 僕に影響したのは、内発的な動機だけではない。この頃、よく見ていた2chのアニメ版では、特定のアニメのファンを長く続けることでマウンティングを取る文化があった。僕はそれを真に受け、アニメのファンたるもの何かのアニメを長く深く愛し続けなければならないと、半ば強迫的に思い詰めるようになった。ASD者にとって、他者は時として全能性を持つ。他者から言われたことが、他者の意見に限定されず、普遍的真理のようなものになるという*3。僕はアニメのファンを続けることを、一つの作品を片時も熱が冷めることがなく強く深く愛し続けることだと解釈していた。そんなことは実際にはほとんど不可能だ。2chでスレに書き込む人々も、今も昔も同じ作品が好きであったのは事実としても、最初の頃の熱情はとうに無くなっているはずである。ところが、当時の僕はそうしたことを考える心の余白がないため、自分もそのような理想的な存在にならなければならないと強く思い込み、あらぬ方向に向けて驀進していった。その果てに見つけたアニメが『ストライクウィッチーズ』だ。僕がツイッターの世界に入った時に属したのも、まさに『ストライクウィッチーズ』愛好者のコミュニティである。

 

 ツイッターも、ASD者と親和性の高い空間である。状況かを俯瞰してみることができないために質問に即応できないASD*4にとって、返信に多少時間がかかってもよいツイッターのリプライによるコミュニケーションは、日常会話よりはるかに適応しやすい。リアルのコミュニケーションでは、他者からの承認を確認するのに、相手の表情を見て、一度状況から離脱した上で想像力を働かせる必要がある。他者の志向性について想像することができなかった僕は、他者が自分のことを好きでいてくれているかどうか、どうしても確信が持てない。一方、ツイッターでは、ふぁぼ(=いいね)やリツイートが付くため、非常にわかりやすい。僕にとって、ツイッターは、リアルの世界では得ることの不可能な他者からの承認が確認できる唯一の場所だったのである。のめり込んだのも当然だろう。加えて、みなが同じものが好きという場所は、それだけで強い結束感がある。イベントに行って実際に会ってみたりして、リアルの世界で強い挫折感を覚えていた*5僕は、ここでなら認めてもらえると安心感を覚えたものだ。僕が初めて他者の承認を実感する体験をしたのは、まぎれもなくツイッターの世界の中であった。

 

 ところが、ツイッターによる自他の分離と自己肯定感の確保の達成が、順調だったのは最初の一年間だけだった。自他分離と承認の核となったアニメ『ストライクウィッチーズ』に飽き始めたからだ。僕は、一つのアニメを変わらない深い愛を注ぎ続けることを自らに課していたが、そんな無理が長く続くはずもなかった。異変に気づいてから半年以上にも及ぶ必死の努力の末、自分がもはや『ストライクウィッチーズ』を愛し続けることができないのだと悟ったとき、自分というものがなくなってしまうような非常に恐ろしい気持ちになったことは今でも忘れられない。最大のトラウマ経験の一つだろう。事実、自己と同一化できる対象を失った後の僕には、無価値感とその裏返しである他者への強い劣等感だけが残った。このときから始まった激しい希死念慮を伴う激しい抑うつは、今に至るまで僕を苦しめている。

 

 高校編/ツイッター編はここで筆を置きたい。次は受験編・大学編だが、十分満足したのでもしかしたら書かないかもしれない。

*1:116ページ参照

*2:163-165ページ参照

*3:243ページ参照

*4:271ページ参照

*5:ASD者は定型者の世界に踏み出すとき、それまで直接的で交感的な世界の中にいた自己の生き方が否定され、孤独感・劣等感・居場所のなさと挫折感を感じるという。当時の僕には急に今までいたのとは別の世界に変貌ように思われ、取り残された感じを強く抱いていた。おそらく、この頃、他者の志向性への気づきを一歩進めたのだろう。ASD者の抑うつについては、222-224ページ参照。