義務感総量一定説

 先日参加した当事者研究で、「漫トロピー(漫画評論サークル)に入ってから漫画が読めなくなった」という話をした。義務が生じた途端、漫画を純粋に楽しんで読めなくなったのだ。この現象は、多くの漫トロピー会員に共通しているらしい。どうやら、義務感と楽しさには負の相関があるようだ。僕の場合、同じようなケースは漫画以外にもある。

 

 大学に入ってから学術書・教養書が読めなくなったのだ。漫画の場合と同じ義務感がもたらす「症状」だろう。さて、こうした義務感を伴う作業とどう向き合っていけばよいのだろうか。それを考えるために、義務感に負けずに作業ができる時はどんな時か、逆に義務感に押しつぶされて作業が完遂できない時は何が原因でそうなったのか分析してみたい。

 

 大学当初の僕は勉強しなかった。おそらく突然生じた「大学の勉強」の義務に戸惑ったためだろう。だが、1回後期にもなるとそれにも慣れ、ともに勉強する友人にも恵まれて勉強に熱を入れるようになる。義務をこなせるようになったのである。だが、そのことと同時並行で起こったことがある。単位を落とし始めたのだ。グラフにしてみるとわかりやすいだろう。

 

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 授業以外での義務の項は、大変だった順に並べると2回後期>1回後期>2回前期>1回前期となると思われるため、それぞれ30、20、10、0とした。明らかな相関があるのがわかるはずだ。なお、2回前期の取得単位数、義務の量がともに落ちていたのは、春休みに大変な義務をこなした影響と考えられる。

 

 以上の結果から、僕は「義務総量一定説」を提唱したい。時間ごとにこなせる義務の量は一定であるという仮説だ。決められた量以上の義務をこなすと精神状態の悪化を招いてしまう。義務が精神状態を決める重要な要素になっているのは間違いない。

 

 ここでは義務と言ったが、本質的に重要なのは義務感の方だろう。一番取得単位数が小さい2回後期には、1月初めから単位を取るためのレポートを書こうと考え続けていたにもかかわらず(いやだからこそ)、レポートが書けないままどんどん精神状態を悪化させていった。僕に本当に必要だったのは義務感を持ち続けることではなく、義務感から自分を一度解放してあげることだったのではないかと考えている。ここでも、「義務総量仮説」は適用できる。いや、「義務感総量一定説」と言い換えた方がいいだろう。義務をこなせなくなったときは、時間ごとの義務感の総量を下げるべきなのである。

 

おわりに

 これはあくまで僕個人についての当事者研究だ。他の人にも「義務感総量一定説」が適用できるとは現時点では判断できない。「私も同じ」「いや自分は違う」などの感想があったらぜひ聞かせてください。