20260907

昨日に引き続き、まどマギの新作映画について書こうと思い、あの緑髪の子が怒っていたのは日帝の加害の記憶を忘却しているからだ、というところまで書いて、やめた。

 

こんなのは言葉遊びでしかない。むしろ実際に戦時を生きた人たちを愚弄しているに近い。

 

昨日の記事は本当に苦しんだこと、感動したことを書いたのだから許してほしいのだけど、そうでもないのにやっちゃうのはダメだ。

 

それはそうと、沖縄県知事選、デニーが負けそうらしいじゃん。うー、デニー負けたらショックやなあ。なんかもう本当に絶望的な気分になりそう。沖縄のことになると胸がいつも苦しくなる。デニーが負けるのが怖いという気持ちの裏に邪悪な何かがありそうで、いつだって「結局お前は侵略者じゃないか」って言われるのが怖くて仕方がない。そういうことは言うべきではないのかもしれない。当たり前のことだが、あまり人を加害/被害の関係で考えるべきではないのかもしれない。常にどっちが抑圧しててどっちが被害を受けてて、みたいなことばかり考えてしまうわけだけども、そういうのって端的に僕自身が辛いんだよね。人にもいい影響はないだろうし。やめたいんだけど、やめたらやめたでそれって居直りで、抑圧への加担にほかならない、みたいな話にもなるわけでさ、どうしたらいいかわからないんだよね。

 

僕の問題は加害妄想ではなくて、「憎まれ妄想」なのかもしれない。人に憎まれていると妄想してしまう。

 

 

20260906

『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ <ワルプルギスの廻天>』を見た。

 

大変に素晴らしかった。

 

虚淵には内心苦々しく思う気持ちがあったが、今回の映画は実に気持ちよかった。

 

公明党が連立を離脱したときを思い出した。あの時のような心持ちだ(結局中道は大コケしたけども……)。ずっと気に食わなかったものが気持ちのいい行動をしてくれる。公明党である。

 

円環の理というものは当然天皇制のことにほかならない。呪いを振りまいた魔女たちは靖国に迎え入れられる描写から見てもそれは明らかだ。まどか以降、魔女の存在はタブーになったとほむらは言うけども、これは戦争加害がタブーになったのと同じである。事実、戦後日本は日帝の加害について覚えていたものやがていなくなり、忘却されていった。

 

今作では「名を呼ぶことが救いである」というテーゼが根幹に据えられている。魔女の起こりとは、無名の呪いを振りまく存在に成り果てた魔法少女に名を与えることで救済しようとした魔法少女がいたからだったのだという事実が明かされる。これこそまさに靖国に合祀されることを指す。戦後に靖国に合祀されたことに対して訴えを起こした人たちがいたけれども、魔女の摂理に抗ったまどマギ本編はさながらそういう話でもあったのだろう。そこにあらわれたまどかという存在は戦後天皇制にほかならない。忘れられているまどかの存在は、戦後日本社会に生まれた人々に忘れられた天皇のあり方を想起せざるを得ないだろう。

 

さて、本作は最終局面で、円環の理=天皇が、まどか=徳仁*1という名前で呼ばれないことを俎上に上げる。本作で僕が最もハッとさせられた点である。

 

考えてみれば、徳仁というのは哀れな存在である。敵ではないものたちからは、「天皇陛下」などと呼ばれる一方で、「徳仁」という名で呼ぶのはいつだって天皇制を憎むものたちであった。僕も常日頃、徳仁徳仁と連呼しているが、当然良い意味で言っているはずがない。

 

実際に侵略戦争を指揮したのは祖父の話なのに、天皇家は戦争犯罪に怒れるアジアの人民に人民裁判で……などと言いたい放題である。徳仁は戦争加害を謝罪し身分制を支える天皇制を廃止せよとことあるごとに言っては止まらないのが我々である。天皇家が何ら罰を受けていないことに全く納得がいっていない。おおよそは祖父の罪だとわかってはいるが、こちらも半ば病気のようなものであって止められないのである。憎くて憎くて仕方がないのである。

 

ある意味で最も熱心な天皇崇拝者であり、同時に最悪の反天皇制運動家である暁美ほむら――。

 

万人がまどかを神として、あるいは存在しないものとして扱う世界の中で、彼女だけがまどかを名前で呼ぶこと、それは確かに愛だ。希望よりも熱く、絶望よりも深いもの(『劇場版魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』)――、そんなものよりもずっとずっと愛らしい愛だ。

 

ほむらを見て思う。もし、親しみを込めて「徳仁」と呼ぶものがいたとするならば、白旗を上げて降参するしかないかもしれない。そんな天皇主義者でこの世界が溢れたとするならば、その愛によって天皇制が廃止されたならば、天皇という呪縛から我々は本当に解放されるのかもしれない。

 

今なお天皇制国家であり続けているこの日本に絶望ではない、ほんのひとかけらだけどもたしかな希望を持てる映画だった。

 

*1:忘れられた天皇、戦後の無謬なる天皇、そういう意味でここは裕仁ではなく明仁や徳仁の名を当てはめるのが正しいだろう。

20260905

明日はまどマギの新作映画を観に行くので、叛逆を見返してみた。

 

それにしても変な話なんだよな、これ。

 

まどかはキリストのようであってキリストではなく、天皇のようであって天皇でない。

 

西欧化の波に揉まれた日本が夢見た理想の天皇制とはこんな様子だったのだろうか。今の我々には天皇制と戦争犯罪は分かちがたく結びついているが、無謬の天皇というものがありえるとすればまどかのような存在だったのだろうか。天皇、天皇、と連呼するのはやめて、日本人の想像するキリスト、と言い換えた方がしっくりくるかもしれないが、僕が言いたいのは天皇制ってそもそもが日本人の想像するキリストだったんじゃないかということでもあり、そう仮定してみればまどマギについて考えるうえで天皇制の問題を避けて通ることはできないと思う。

 

それにしても、天皇主義者・さやかの主体性のなさにイライラする。ほむらのようなタイプの天皇主義者はまだわかるというか、天皇への愛を突き詰めた先に反天皇制に至っていて大変に素晴らしいのだが。

 

さやかは自分のもともとの欲望も忘れ、天皇制と自分を同化させてしまっていて、こういうやつが一番ダメなんだよな、と怒りを覚える。あなたみたいなのが戦争を引き起こしたんじゃないですか。スターリン主義者と言ってもよい。紅衛兵みたいでもある。叛逆のさやかは、あの気持ち悪さに妙に重なる。いろいろな不満、悔しさを月並みな左翼思想に乗せて語ろうとする普段の自分とも重なってくる。もう嫌だ。あれにはなりたくない。あんな風に僕は見られているのだろうか。本当に嫌だ。あれが大人になるということならば、精一杯抗いたい。

 

20260903

自らの特権性が嫌で嫌で仕方がなくなったのは会社に入ってからだった。ホワイトカラーとして働くということはどうにも特権性を自覚させられる性質があるらしい。むろん全員ではないけども、会社にいる人たちの態度には失敗したもの、障害を持つもの、貧しいものへの侮蔑を感じることが多い。

 

しかしああいうのも、実は僕が加害意識で狂ったことと裏表の関係にあるのではないか。ホワイトカラーの仕事というものはただ単に搾取しているだけではなく、自分の特権を意識させられる性質があるのかもしれない。それに耐えられない人は少なくない。だからああやってむやみに人を侮辱したりするのだろう。ちょっと特殊な業界だから、うちの会社がおかしいだけなのかもしれないが。

 

20260902

社会主義革命しかない。

 

どうしてこんなにIT技術が発展してなお、楽にならない。
今のIT技術は鉱山労働者の搾取によって成り立っているわけだが、そんなにまでしてなぜこんなに苦しい思いをしているんだ。経営者は病気だし、ベテラン労働者は疲弊しているし、若い労働者はだるそうにしている。われわれの苦しみなんて贅沢ものに違いはない。しかしだとしたらどうして搾取が続いているんだろう。もう人の血をすすっていたくはない。

 

世界同時革命しかない。