『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ <ワルプルギスの廻天>』を見た。
大変に素晴らしかった。
虚淵には内心苦々しく思う気持ちがあったが、今回の映画は実に気持ちよかった。
公明党が連立を離脱したときを思い出した。あの時のような心持ちだ(結局中道は大コケしたけども……)。ずっと気に食わなかったものが気持ちのいい行動をしてくれる。公明党である。
円環の理というものは当然天皇制のことにほかならない。呪いを振りまいた魔女たちは靖国に迎え入れられる描写から見てもそれは明らかだ。まどか以降、魔女の存在はタブーになったとほむらは言うけども、これは戦争加害がタブーになったのと同じである。事実、戦後日本は日帝の加害について覚えていたものやがていなくなり、忘却されていった。
今作では「名を呼ぶことが救いである」というテーゼが根幹に据えられている。魔女の起こりとは、無名の呪いを振りまく存在に成り果てた魔法少女に名を与えることで救済しようとした魔法少女がいたからだったのだという事実が明かされる。これこそまさに靖国に合祀されることを指す。戦後に靖国に合祀されたことに対して訴えを起こした人たちがいたけれども、魔女の摂理に抗ったまどマギ本編はさながらそういう話でもあったのだろう。そこにあらわれたまどかという存在は戦後天皇制にほかならない。忘れられているまどかの存在は、戦後日本社会に生まれた人々に忘れられた天皇のあり方を想起せざるを得ないだろう。
さて、本作は最終局面で、円環の理=天皇が、まどか=徳仁*1という名前で呼ばれないことを俎上に上げる。本作で僕が最もハッとさせられた点である。
考えてみれば、徳仁というのは哀れな存在である。敵ではないものたちからは、「天皇陛下」などと呼ばれる一方で、「徳仁」という名で呼ぶのはいつだって天皇制を憎むものたちであった。僕も常日頃、徳仁徳仁と連呼しているが、当然良い意味で言っているはずがない。
実際に侵略戦争を指揮したのは祖父の話なのに、天皇家は戦争犯罪に怒れるアジアの人民に人民裁判で……などと言いたい放題である。徳仁は戦争加害を謝罪し身分制を支える天皇制を廃止せよとことあるごとに言っては止まらないのが我々である。天皇家が何ら罰を受けていないことに全く納得がいっていない。おおよそは祖父の罪だとわかってはいるが、こちらも半ば病気のようなものであって止められないのである。憎くて憎くて仕方がないのである。
ある意味で最も熱心な天皇崇拝者であり、同時に最悪の反天皇制運動家である暁美ほむら――。
万人がまどかを神として、あるいは存在しないものとして扱う世界の中で、彼女だけがまどかを名前で呼ぶこと、それは確かに愛だ。希望よりも熱く、絶望よりも深いもの(『劇場版魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』)――、そんなものよりもずっとずっと愛らしい愛だ。
ほむらを見て思う。もし、親しみを込めて「徳仁」と呼ぶものがいたとするならば、白旗を上げて降参するしかないかもしれない。そんな天皇主義者でこの世界が溢れたとするならば、その愛によって天皇制が廃止されたならば、天皇という呪縛から我々は本当に解放されるのかもしれない。
今なお天皇制国家であり続けているこの日本に絶望ではない、ほんのひとかけらだけどもたしかな希望を持てる映画だった。