20231011

月刊アフタヌーン2000年12月号を購入

ヤフオクで落とした月刊アフタヌーン2000年12月号が届いた。

ラインナップのすごさに目を奪われがちだが、ここでは、1999年・冬の四季大賞を受賞した佐久間史幸の読切「眠り姫」の話をしたい。

佐久間史幸は「眠り姫」と四季大賞受賞作「赤い鳥」の二編以外、商業誌には書かなかったらしい(少なくとも同じ名義では)。

 

「眠り姫」は、小学生の頃に強盗に両親を殺されレイプされた過去をもつ少女ちさきが、男に出会って立ち直るこの時代にはありがちなラブストーリーだ。

「トラウマから逃れるために眠っていたい」という文脈でちさきの口から語られた『眠り姫』の童話が「やっとこれでちさきちゃんが自分のために生きられんじゃんか!!」「眠り姫は!! 目覚めてから幸せに暮らすんだぞ!! ずっと幸せに――!!」と男の口から解釈されなおされる筋は鮮やかで感動したのだが、僕がこの読切に惹かれるのはもっと微細なところだ。

 

たとえば、ちさきを引き取った叔母の語り。叔母は「ダンナと別れて寂しかったし」「ちさきちゃんがウチに来てくれて良かったわ」とちさきと歩む人生を肯定してくれる大事な家族だ。叔母はあるとき、ちさきの両親の思い出を聞かせてくれる。おとなしかったちさきの母が大学をやめて結婚する。それはそのときの家族にとってさぞや一大事だっただろう。二人の間にはそれはそれは強い気持ちの通じ合いがそこにはあったのだろう。きっと母にとって父との結婚は、「自分の人生を生きなおす」ことだったのだ、と僕は読み取った。

一方で、叔母は自分の結婚は失敗したと振り返る。でも叔母はその人生に満足している。そのことのなんと尊いことか。

もちろん、母のように自らの意志に従って「自分の人生」を能動的に作り上げていく必要はない。叔母のように不幸だったり失敗したりした過去を肯定する必要はない。でも、どんな道を辿っても最後には人生を肯定できる道が可能性として開かれている。僕はそのことに感動する。

 

終盤、人生をかけて(「人生の無駄づかい」と作中では表現されている)探してきた仇をついに見つけたちさきは、愛する男の制止を振り切って仇を刺す。

そして「あたしの未来なんて 将来の幸せなんて パパとママと一緒にあの時殺されてたんだ!!」と叫ぶのだ。「これで終わったのよ 何もかもやっと……」とちさきは語る。

 

このとき、男の救いをちさきは受け入れられなかった。でもそれで終わりにはならない。

一度「殺された」人は「死ぬこと」と「生きること」を往復する。そしてその往復の中にいて、きっかけ次第で「死ぬこと」と「生きること」のどちらかに傾いていく。今「死ぬこと」に傾いていたとしても最後にはどうなるかわからないのだ。その人生のわからなさの描き方に僕は一番惹かれたのだと思う。