20240509

カレカノ19話まで観た。

本当は観るのが怖かった。思い知らされそうで、僕の存在を否定されそうで、怖かった。

そして18話。

二人の初夜の描き方がすごすぎた。

なんだかすごすぎて、遥か遠く離れた星の出来事みたいだ。

僕には一生ここに到達できそうにない。

さっぱりとした諦念。

苦しくないということはないけれど、昨日よりは気分よく観ることができた。

 

さて、今日は帰ったら同居人がまた「ガイア・プロジェクト」をやりたそうにしていた。これで四戦連続だ。技術ブログを今日も書けないことに罪悪感があるが、これは仕方がない。で、今日も負け。四連敗だ。昨日ほど情けない負け方ではなかったし、今日は気分よく眠れそうだ。二人でもなんだかんだ二時間くらいかかるゲームなのでまた睡眠時間が削られてしまうが……。

しかしボードゲームをやっていると、そのたびに自閉的な自分に反省させられる。

どうして気づけなかったのか。

どうしていつも相手の立場に立って考えられないのか。

どうして、いつも、いつも……。

昨日のブログを読んだ友人から、「ちろきしんが繊細な漫画を好む割に他者理解が浅すぎるのは、自分の繊細さを確かめるために漫画を読んでいるからだ」という指摘を受けた。

これは半分当たっていて、半分腑に落ちなかった。

僕が漫画を読むとき、そこに自分しかいないのはその通りだ。漫画に自分を重ねて気持ち良くなり、気持ちよくなった自分に酔っている。

が、自分しかいないといっても、僕は僕なりの他者をみる眼鏡を持っているつもりだ。

僕は常に一定以上の水準で相手に気を配るということがどうにも非常に苦手なのだ。だからこそ処世術としての道化が必要だった。その場を楽しませるような仕方で他者理解が浅いふりをしておけば、いざ配慮にかけた言動をとったときになんとか許してもらえる可能性が高くなる。もちろんそれは狡いやり方だ。そうやって逃げてばかりいるから"ほんとう"の関係を築けないのだろう。ごめん、やっぱり他者を理解する力そんなになかったのかもしれない。また人との関係の失敗を思い返してしまった。いつも逃げてばかりだ。それで代償を払う羽目になる。

でも今日はもういい。俺は有馬や宮沢のようにはなれない。そうやって諦められる日はいつもよりいい日だ。