20240805

二日ほどブログをお休みしていたのは友人が来て、ずっとボドゲをしていたからで。

 

京都にいた頃のような時間を土日に過ごしていると、会社についたときにギャップにびっくりしてしまう。ここ最近は困窮者の支援をどうやってやるかばかり考えているのだが、友人と遊んでいるときはあまり考えないので、どうやら会社での時間が最近の僕の思考の変化に大きな影響を与えているらしい。

 

会社で生活保護の話題を出したら受給者を馬鹿にするような反応をされて、そのときからおかしくなったような気がする。

その発言をした人は結構貧困で苦労した人でさ、一方で僕なんかは何の不自由もなくここまで生きてきたわけ。

 

大学時代に僕がいたコミュニティは家が裕福な人も多かったけど、生活保護を叩くなんて絶対ありえなかった。そんな人がもしいたとしてもまず説教するのが当然だった。でも結局僕は貧困ってことが何なのかよくわかってなかったんだと思う。

 

ポリコレばかり話題に上げて本当に貧しい人のことを取り上げないから今の左翼はダメなんだって、自分はそんな大衆から遊離したインテリとは違うって思い込んでたけど、結局同じ穴の狢だったんだって気づいちゃった。だって貧困を生き抜いてきた人がどうして生活保護バッシングをするのか本当に全然わからない。そうならなければ生きていけないほど大変だったということなのだろう。けれど、その感覚を理屈ではわかっても直観的に理解するのは今の僕にはできない。

 

このまま何もしないでいたら本当に自分が嫌ってた似非左翼になっちゃいそうで、というか実は現時点でもすでに似非左翼そのもので、それが怖くて何かしなければと、ただただ焦りばかりが膨らんでいる。人より恵まれてきたということは重い罪だ。仮に一般庶民から数百万円盗んだとしよう。でも恵まれた人なら数百万円盗られたところで、深刻なダメージはない。もしくは暴行を振るって重傷を負わせたとしようか。数か月の入院くらいそんなに人生の影響もないだろうし、恵まれた人なら仮に深刻なトラウマを背負ったとしても周囲の人間の支えで立ち直ることができる可能性も高い。貧しい人と僕との差は重い犯罪的行為の被害よりも大きいわけだ。

 

結局、自分には安全な位置から抜け出す勇気はない。そうである以上何をしてもこの罪は消えないのだろうし、罪悪感に耐えられないので、結局何かをし続けるしかない。もしかしたら数か月もしたらこの罪悪感もなくなって、似非左翼であることを受け入れて恵まれない人のことよりも自分のことを優先するようなクズに成り下がってしまうかもしれない。十分にありえる話だ。結局土日はいつも遊んで過ごしてるしね。すでに重い重い罪を背負っている。どうせ何をしても消えないのだから意味なんてない。