20240416

しばらく更新をサボっていた。

 

といっても仕事で全く余裕がなかったというわけでもなく、土日は一日中遊んでいたのだが。

 

大学時代を通して僕は気の合う人としかつるんでいなかったので当然ではあるのだが、会社の同期たちと自分との違いに驚く毎日である。

 

まず、意外とみんな時間がありそうなのだ。僕が土日ずっと遊んでいる間に彼らは着実にステップアップしている。別に全く後悔はしてないのだが、一つ思うことがある。

 

テクノロジーの進歩やその他いろいろな理由で現代人は余暇を増やしてきた。僕が週40時間労働に文句を言っているのもきっと恵まれていて、少なくともここ数十年くらいの変化を辿れば空き時間は増えているんじゃないか(※要検証)。

 

それでも余裕がないような気がするのはSNSのせいだと思うのだが、それはまあ置いておくとして。で、同期たちはその空き時間を利用して何をしているのかというと、キャリアアップのための勉強なのである。こんな調子ではただでさえ開いている差がどんどん広がってしまう。「差が開いたからといって何なのだ、自分さえ満足していればそれでいいじゃないか」ということもできるかもしれないのだが、僕の場合はなんとなくいい気がしないタイプだ。

 

空き時間まで自主的に"成長"してるような人たちと競争するのはやっぱりしんどい。僕は何もしたくない。それでいて自分のことを認めてくれる人だけに囲まれて生きていたい。だが、これから認めてくれる人だけに囲まれて生きていくにはやっぱり仕事ができた方がいいような気がして……。

 

やはり僕は周りが結婚とかしだすと自分も結婚しないといけないんじゃないかとどうしても思ってしまうタイプだし、そのことを考え出すとやはり収入を上げていかないとという気になる。

 

とはいっても元々左翼気取りだったのだから自分の仕事に若干の後ろめたさもありつつ、ああ、そういう風に考えだすと、自分の卑しさに自己嫌悪が止まらない。結局自分はインテリで資本主義社会において不当に利益をむさぼってきた側なのだという後ろめたさは、会社帰りに夜を歩いていると憑りつかれてしまうんじゃないかってくらいに大きい。仕事を始めてから強まった気がする。そう考える自分、こう書いてしまう自分が僕は嫌いだ。

 

京都に帰りたい。ここにいると道端で、電車で、オフィスで、たくさんの人の姿を目にすることになる。みんな愛する人に愛され、人生が楽しくて、将来は希望にあふれていて、と思うと気が狂ってしまいそうになる。

 

この前読んだ松永豊和の四季大賞受賞作「きりんぐぱらのいあ」のコマが脳裏にはりついて離れなくなる。チビのブ男が小さい体でバーベルを持ち上げて訓練する姿だ。男はそれから自分をいじめたやつらに復讐しにいく。ひとりひとり、凄惨な手段で血祭りに上げる光景を覚えている。

 

人を目にするといけない。たくさんいると特に困る。ここに来たのは間違いだったのかもしれない……。