僕には、左翼コンプレックスがある。
昔は友達コンプレックスだった。中学・高校あたりはあまり友達もいなくて*1、人とのかかわりに飢えていた。
大学に入って友達ができてからはろくに勉強もせず、友達と遊ぶ時間ばかりを大事にしていたのはそのせいだと思う。
あの毎週集まって深夜まで遊んだり話したりする空間が自分の望むものすべてのようにみえていた時があった。
十分遊びつくしたはずなのにそれでも飽き足らずシェアハウスを作ってずっと遊んでいた。楽しかった。その生活に終わりが見えてきてからは終わりの時がただただ怖かった。
だが、大学の時に憧れて得られなかったものがある。
一つは恋愛。
(最後の最後に交際相手はできたが)ずっと自分の好きな人が自分と恋人になってくれないということに傷ついてばかりいた。
二つ目は尊敬。
何か人から尊敬されるような知識をもったスペシャリストになりたかった。遊んでばかりいたから結局人とは違う何かを最後まで得ることは叶わなかったのだった。
そして、三つ目が善である。
大学に入って僕は貧困や格差という問題を見聞きするようになる。それどころか、周りに問題意識をもって立ち上がる人もよくみるようになる。ところが僕は遊んでばかりいて、問題だよねという態度をとりながら何もアクションを起こさず少しの罪悪感と引き換えに安寧をむさぼり続けていた。
そんな自分と比較して、社会の不正義のために戦う人たちはとてもかっこよくみえた。そして、恵まれている自分が情けなく罪深く思えて仕方がなかった。でも、遊んでいただけといっても目の前の時間に毎日精一杯で暇なんてなかった。実際、今そこにある時間が何よりも大事だった。そうやって、なんとなく日々を空費して、最後まで何もしないまま、大学を出ることになったわけである。
今、大学に入ったころの友達コンプレックスを振り返る。あの頃に感じていた「自分の人生で必ずこれをなしとげなければならない」という切迫した焦りは今僕が感じているそれに似ていると気づく。積み重なった気持ちの重みに耐えられなくて、ただただその重みから逃れるために「支援」をしたいと願う、この偽善性。「本当にそれでいいのか?」と自分でも疑問に思わないではいられないけど、もう何がどうであろうとやるしかないところまで追い込まれている*2。
でもホームレスに話しかけることすら自分では難しくて、でも何かをやらないといけなくて、やっぱりやりやすいところから慣れていくしかないのかなと思って、今度どこかの団体に参加させてもらうことにした。
これでいいのか?
この僕のよこしまな欲望のせいでまた誰かが傷つくんじゃないのか?
疑問は尽きないけど、やるしかない。自分のためでしかない。
正直、自分のために生きるのに必要のないものを買ったりしている人ばかりなわけで、僕の行為も許されてしかるべきだという思いもある。もちろん加害にならないように気をつけるのは前提だけど……。
あと、こういうことブログに書くのってたぶんいけないことだよね。怒る人もいるのかもと怯えている。でも現に苦しいのは本当だし、そもそも自分のような人間が社会に存在してもいいのだと示したくてやってるのだし、書くことはやめたくない。結局僕は自分のことしか考えていない。本当に嫌になる。