20240905

最近は暇空茜のことを真面目に考えなければいけないと思い、だらだらとツイートを見ていてふと思ったことがある。

 

今の苦しい状況で頑張っている男性に自分のことを代弁してくれるヒーローがいないんじゃないかということだ。結局もはや使い古されている「白人労働者階級」論と近いところに着地するのだが……。

 

たとえば女性(という自認を持っている人)であれば大森靖子など、自らの心情を代弁する著名人はかなりの数いる印象がある。ところが「キモくて金のないおっさん」にとっての大森靖子はついぞ現れなかった。

 

おそらくだけど、今「キモくて金のないおっさん」の社会への恨みを率直に語ろうとするとそれはアートとしてはみなされない。単なる差別的表象でしかなくなってしまう。

 

そこで差別主義者になることを選ばなかった人たちはVTuberに群がっているのだと思う(僕は暇空もVTuberも不倶戴天の敵だと思っている。いずれちゃんと向き合わなければならないと思ってはいるのだが……)。しかし、VTuberもおそらくは大森靖子のように生き方のモデルを提示してはくれない。そこに悲劇があるのだと思う。

 

やっぱり俺は本田透が好きだ。『電波男』には負け組なりの生き方が示されている。でも僕は脳内嫁というのがついぞ信じられなくなってしまった。画面の中のキャラクターですら、いやだからこそ、俺を愛してくれるということを信じることはできない。

 

最近、『Kanon』をやり直し、真琴が実は僕たちの罪を身をもって贖ってくれたことを知った。こう聞くと聖書みたいだが、そのとき僕は、イエスの犠牲に救われた人たちの気持ちを理解したのだ。僕にとってのイエスは真琴だった。

 

真琴のように僕もこの身を罪びとたちのために捧げようという考えに憑りつかれる。だがその一方で潔癖であろうとするがあまりヒロイズムに身を浸すのはむしろ安易で避けるべきだとも思う。俺が暇空にとって代わる救世主になるというのは、たしかに素晴らしい考えだけど……。いつもいつも迷ってばかりだ。どうしたらいいのだろう。