20230917

田中ユタカ①↓

nakanoazusa.hatenablog.com

田中ユタカ

昨日の記事で、田中ユタカが「恋の破壊性」を大事にしていた、と書いた。今まで「築いてきた自分が破壊されること」と「恋愛がしあわせな営みであること」は田中ユタカの中では深く結びついている。

だから、田中ユタカの漫画では、セックスの場面と日常の世界とは明確に切断されている。時間も、空間も、何もかも違う。

 

たとえば、僕がもっとも気に入っているエロ漫画家のひとり、夏蜜柑は日常とセックスが連続するものとして描く。恋のはじまりを描く場合でも、キャラクターたちはセックスの以前からお互いの気持ちをなんとなく了解しており、セックスは、作品の前の時間からつづく積み重ねの結果でしかない。

 

夏蜜柑はよく病気や障害をもつキャラクターを登場させるのだが、病気や障害によって日常を揺るがされたキャラクターが日常を確認する手段としてセックスを描くことすらある。

だから、夏蜜柑の描くセックスの表現は抑制ぎみだ。喘ぎ声も小さく、時間の流れも日常の場面と変わらない。スローモーションのように時間の流れを描くこともなければ、ひとつの場面を印象づけるときも控えめだ。

 

それに対し、田中ユタカは、大きな喘ぎ声と擬音、大ゴマに集中線、背景の演出を駆使して過剰なまでにオーバーにセックスを表現する。セックスをするふたりの世界からは日常は消え失せ、その中で自意識の破壊が進行する。ふたりはセックス体験によって重要な気づきを得ることになる。

 

ここで田中ユタカの一冊目の単行本、『ファースト・タッチ――初恋』収録の「ふたりのトレイン」という短編を例に詳しくみていきたいと思う。

主人公は高校三年生。電車でいつも乗り合わせる別のクラスの女子に三年間片思いをしている。

話の最初において、電車の中は息苦しいほどに人がたくさん乗り込んでいるさまが描かれている。

田中ユタカの作品において、恋はつねに電撃的に到来するものである。主人公は想い人に彼女の方も三年間自分をずっと見続けていたことを告げられる。この場面において、周囲の乗客は意識から姿を消し、電車の転動音とスピードが意識にせりあがってくる。ヒロインの突然の告白に慌てて困惑するさまが巧みに描写されている。

 

やがて、彼女との行為が始まると、電車の転動音も外界の様子もいっさいが消え、ふたりだけの世界になる。

そして、「ドキッ」という擬音の次のページからは、自らの存在すら消失する。彼女だけが目の前にあらわれる。この段階に達して主人公の意識に変化が訪れる。

これまで遠くから見ていたばかりだった彼女がひとりの女の子であることに気づくのである。そこで転動音が耳に入り、一瞬日常に戻る。もはやかつてとは違う自分になって日常に戻ってくるわけである。

そしてふたりはわれを忘れて行為を続ける。ここでは上段の乗客の困惑と下段の絶頂が対照的に描かれているが、ここで描かれているのは、ふたりの世界と日常の世界がはっきりとした断絶である。

ついにふたりはこの世のものとは思えない世界に行ってしまう。

最後のページでは、セックスを経験したふたりはそれぞれに気づきを得て日常の世界に戻っていく。ふたりはセックス体験によって日常とはかけ離れた彼岸に到達し、そして互いを破壊する経験を通じて大事なことに気づいたのだ。田中ユタカにとっての「しあわせな恋」とは、こんな体験である。このことは最初期からずっと一貫している。

 

次回は、代表作『愛人』を扱う予定。