20240704

p-shirokuma.hatenadiary.com

 

シロクマ先生の記事を読んだ。

 

ここで触れられている「近代に流行した鬱屈とした自意識や虚無感」がここ最近目立たなくなっている問題について僕は強い関心があって、というのも「鬱屈とした自意識や虚無感」を抱える人間のひとりとして、どうにも同年代(僕自身は1999年生まれだ)の同類が世間では非常に少ないようで疎外感を覚えているというわけである。特殊なコミュニティに行かない限り出会うのは非常に難しいのではないだろうか。

 

「近代に流行した鬱屈とした自意識や虚無感」の代表選手を名乗るのも小恥ずかしいけれど、この毎日更新しているブログを読み返してもらえばわかる通り、実際僕は、「愛し愛される関係が欲しい」だの「自分はどんなに人より劣っているか」だの、「働くことなんて意味がない」だの、「未来に希望がない」だのそういった内容を臆面もなくつらつらと書き連ねる毎日を送っている。

 

どうして、近年「近代に流行した鬱屈とした自意識や虚無感」が目立たなくなってきたのか、という問題については、SNSの普及だとか社会の自己啓発化だとか自分で考えていることもないではないけれど、そんなこと誰もが気づいていることだろうし、僕が話す価値はないのでここでは触れないでおく。代わりに僕がどうやって今の自意識をもつに至ったのかを振り返ろう。

 

高校生だった僕は学校社会に居場所を見つけられなかった。当時はちょうどスマートフォンを中高生が持ち出したころで、例にもれず僕も買い与えられ、Twitterにのめりこんでいった。しかしながらのめりこみつつもどうにも浮いていたし、これがTwitterというもののよくないところなのだが、「デキる他人」が常に目に入ってしまうのだった。現在も抗うつ剤のお世話になっているくらいには病んでいる僕だが、このころから鬱が悪化していったように思う。

 

このSNSの台頭は「近代的自我」の退潮に間違いなく大きな影響を与えた事件であることは間違いない。

「デキる他人」が目に入ることによって自分も「デキる」ように振舞おうとする。そうみんなが振舞うようになった結果、「デキない」自分を抑圧するようになったのだ、という説明もできるだろうし、かえって不特定多数に向けて常時内面を晒す、というSNSの環境が個人の意識から「近代的自我」の場所を奪ったのだ、という説明もできよう。

 

どちらのパターンもありそうな話なのだが、僕がたどった道は後者だったように思う。今の僕はこんな使い方をしているが、当時はこんな風に内面を書き連ねる習慣はほとんどなかった。学校社会と同様、その場のノリに合わせて脊髄反射的にツイートをする。そうだった、あの頃はいつもTwitterのフォロワーにウケるネタのことばかり考えていたな。他者志向的な生だった、ともいえるかもしれない。

 

Twitterはネットの向こう側の人との常時接続を可能にした。マイクロポスト型のサービスは文章を打ってレスポンスを貰うまでのスパンが非常に短い。短時間で作用する刺激にどんどん依存していった。そうしていると「ひとり」の時間は皆無に等しくなる。「自分」のことを深く考えなくなる。

 

僕が青春時代を過ごした時期は「自分」のことを深く考えなくさせる装置がそこかしこに埋め込まれている時代だったと思う*1

 

では、回想に戻ろう。どうして僕は僕になったか。ひとつには浪人したことが考えられる。受験生だった二年間、Twitterからは離れていてその間、自分のことについて深く考える機会ができた*2。もうひとつは人との出会い。高3になって哲学科に行きたいと語る友達とよく話していた。彼は哲学的な問題が好きでよく僕も考えさせられたものだったが、こういう風にひとりでものを考える人に出会えたのは大きかった。

 

もちろん、大学に入って、「サークルクラッシュ同好会」や「ぼくらの非モテ研究会」のような自意識を語るための場に出会ったのも大きかった。自分も大いに影響を受けてパクりみたいな団体を立ち上げたりした。そうやって人に自分のことを語りながら語り方を少しずつ覚えて自分のスタイルを見つけていった。

 

今思い返せば、高校の頃は自分の悩みを人に語る言葉をもたなかった。そもそもどう語っていいかもわからなかった。じっくり自分のことについて悩む、というあり方がわからなかった。

 

大学に入ってからは、多様な「悩む人」「悩む文章」を見てきた。褒められたことではないが、もっと面白い「悩む人」になろうと対抗意識を燃やしたりもした。今でもそんな意識はある。Key作品や鬼頭莫宏二宮ひかるの漫画のような青年期の自意識をたくみに描写した作品にのめり込んでいった。そういえば、同年代のその辺の作品が好きな人は大抵上手な「悩み人」だった。今そんなものが好きな人は多かれ少なかれ「悩む」素質があるのかもしれない。

 

少なくとも僕にとっては、ひとりで自分のことを考える時間は心のメンテナンスをする大切な時間だ。ここ一ヶ月、精神の調子を崩してしまっていたが、これもおそらくはTwitterを見すぎていたせいだろう。SNSが僕から奪ったもの/奪っているものとは結局何だったのか、まだ自分でもわからないことは多いのだが、とにかくなにがしかの悪い影響を精神に及ぼしていることは自分の感覚として確信している。

*1:そうして何も考えない労働者を資本家に供給する構造に、という話にもできるだろう。

*2:こう振り返ってみても「近代的自我」の退潮という事件にとってSNSが何よりも決定的だったと直感する