20231027

二宮ひかる『もう逢えない』②

nakanoazusa.hatenablog.com


一昨日のブログで二宮ひかる『もう逢えない』について書いた。だが、漫画のレビューをするというのに、漫画ならではの表現について言及をサボったため(スキャンとかするのが面倒だから)、これでは一体僕が何に感動したのか、何がすごいのか、わからなくなっている。そこで今日改めて、二宮ひかるがどんな表現技法を使っているか書きたい。

どんな漫画であるかについては、先のページに書いたのでそちらをまずは先に読んでほしい。

 

二宮ひかるは、恋愛をめぐる人の感情がいかに複雑か、いかにわからないものかを描くのに非常に長けた漫画家だ。

 

まずはこの清水が失言によって「女の子が生まれたら別れる!!」とまゆに告げられる直前の場面。

 

清水がまゆに対し、「どんなに心休まることか……」「彼女が与えてくれるほど オレは彼女に与えてる物があるんだろうか」などと繰り返し、確かな愛情と信頼と安心を感じていることを踏まえての場面である。

左ページを見てほしい。

まゆは不倫関係に対して不安を口にする。それに対し、清水は(オレもだ…)と幸せそうな表情を見せる。バストアップで縦に長いコマに映り、まゆの不安げな表情が強調される一方で、清水の幸せそうな表情が描かれているコマは右の縦長のコマの3分の2の縦の長さに過ぎない。それも全身が移っていて、表情に対してあまり強調が置かれていない。まゆにとっては重要な会話なのに、清水はなんとなく日常の延長線上で会話している、その温度差が描き出されている。二宮ひかるの漫画はいつもそうだ。『ハネムーンサラダ』において、「けっして縁は切れない」と表現されるほど確かな絆がある遥子と実の関係を思い出してほしい。二宮ひかるが、二人の関係のすれ違いをどんなに執拗に描いていたか。人の気持ちはわからない。それでもその中にある確かさを掴もうとする。そうした運動が二宮ひかる作品の中にはある。

 

二宮ひかる漫画の大きな魅力はキャラクターの感情のわからなさだ。そしてそれはキャラクターの魅力を決定的なかたちで引き立てている。ここでも愛する清水とのコミュニケーションの中で表情をころころと変えるまゆの表情が強調されながら、描かれている。

 

左ページの最初のコマを見てほしい。ここでこれまで第三者的に部屋の中空から場面を映していた視点の位置が急に清水の目線になる。そして清水の困惑が映し出されるコマが挟まる。ただし、ここではまだあまり清水の表情は強調されていない。まだ日常の延長線上を清水は生きている。清水の時間感覚が日常の時間から一気に転換するのが、「別れる!!」と言われた瞬間の次のコマだ。ここで呆けたような表情になる。

 

この重要な場面で挟まる何を考えているかわからない表情が、二宮ひかる漫画にとっては重要だ。「感情のわからなさ」を表現するうえで大きな役割を果たしている。左ページ二番目のコマと最後のコマの清水の表情を比べてみてほしい。二番目の日常の時間に留まる清水は、わかりやすく困惑の表情を見せているのに対し、最後のコマでは呆けているのか混乱しているのか心理が読み取りづらい表情になっている。そうした「わからない表情」を、あえて挟むことで二宮ひかるは、キャラクターの心理の複雑さや混乱を描写しているのだ。

 

急に清水の目線からまゆが描かれるコマにも注目したい。ここでは背を向けるまゆの姿が清水に強く印象付けられる。まゆが離れていってしまうのではないか、という清水の刹那の不安を見事に描写したコマでもある。そしてここのまゆも「わからない表情」をしている。まゆの迷いをも描き出しているわけだ。それが決意の表情に変わって「別れる!!」と言い放ったところで、清水の時間感覚は転換する。人はいつも迷いながら決断していく。そしてそのとき、何を決断するかはわからない空白の時間が存在する。そのすべての可能性が存在する空白の時間で何が決定されるかわからない。それが二宮ひかる漫画の世界観だ。人間はいついかなるときも「わからない存在」なのである。

 

さて、終盤の第二子が生まれる直前、「別れずにすむかも」と衝動に押されて清水がまゆのもとに駆け付ける場面である。

右ページには清水にとってまゆが「わからない」存在であるかが直接的に描かれている。そしてふと、まゆと自分のすれ違いに気づくわけだ。「同じようにおまえはつらいんだ!?」と言われたときのまゆはまた、「わからない表情」をしている。ここで読者はまゆの中に清水が自分のことをわかってくれたことへの嬉しさと同時のその寂しさ、悲しさ、申し訳なさなど、ありとあらゆる感情が渦巻いているさまを想像することができる。そしてまゆが選び取ったのは清水を追い出すことだったのだが……。

清水の「女の子が産まれたら おまえみたいな娘に なって欲しいと思う」という言葉でまゆの表情はまた「わからなく」なる。そして刹那、頬を赤らめて嬉しそうにするまゆを映した後、またまゆの背を描いて表情を隠し、表情が隠されたまま、「ごめん…」という言葉に繋げている。

 

はじめ、儀礼的に清水を追い出そうとしたまゆだったが、清水のまゆへの率直な愛情が伝わったことによって(セリフ回しが神がかっている)、自分の「ほんとうの気持ち」がするすると引き出されていくのだった。

ここで清水の視点でまゆの表情が大ゴマで映し出される。先ほど言及した清水視点のコマではまゆは背を向けていたが、ここでは正面を向いている。まゆの言葉に圧倒され、同時に真剣に受け取ったことが表されている。おそらく、ここで清水はまゆとの別れをはっきりと予見したのだろう。「たいした自覚もなく 親になったのに」というモノローグがあまりにも悲しい。清水にとってまゆはほんとうにかけがえのない、大切な人だったのだ。愛しあっているのに、すれ違いは埋められない。そうして「ほんとうの気持ち」に気づいたまゆは清水との父娘相姦の欲望を語りだす。清水の妻がいることは変えられない。それでも清水と家族になりたい。そんな現状への諦めと欲望が混じった非現実的な夢を語りだす。「ほんとうの気持ち」を伝え合い、ふたりは幸せなときを過ごす……。

 

誰が相手であれ、人は互いの関係にすれ違いや葛藤を抱えながら生きている。大切な相手への「ほんとうの気持ち」を、自分すらわからないまま生きている。でももし、「ほんとうの気持ち」を相手に伝えることができたら、もしかしたら相手の「ほんとうの気持ち」がわかるかもしれない。「ほんとうの気持ち」を伝えることで、本人にすらわからない「ほんとうの気持ち」が引き出されるかもしれない。そうすれば、すれ違いを乗り越えることができる。「わからなさ」を乗り越えることができる。

 

「――それから 彼女とオレはすぐに別れるということもなく しばらくの間ずるずると続いた」

「――元気でしあわせになってほしいと思う たとえもう二度と 逢えないとしても」

 

ふたりの関係は破綻した。それでも清水はまゆを愛し続ける。まゆもきっと……。一見辛いように感じるけれど、それだけ想える相手がいるということは、幸せなことのように僕は思う。

 

「もしふたりの人を好きになったら」というテーマは一夫多妻制を描くというかたちで『ハネムーンサラダ』において変奏される。考えてみれば、『ハネムーンサラダ』でも「ほんとうの気持ち」を伝え合うことを経て、関係のありかたが決まっていくというプロセスが描かれている点では非常に類似した構造をもっていることに気づく。二宮ひかるは一貫して、人の気持ちの「わからなさ」を描いてきた。「ほんとうの気持ち」だってそれが「ほんとう」なのかはわからないことは、それもまた二宮ひかるの漫画において執拗に描かれるテーゼだ(だからこの文中で鍵かっこで「ほんとうの気持ち」と表記した)。その一方で、二宮ひかるは同時に「ほんとうの気持ち」に近づこうとすることの尊さを描いた。「ほんとうの気持ち」をわかろうとすること、伝えようとすることが、いかに大事かを描いてきた。

 

人間の「わからなさ」がいかに魅力的で、それでいて頭を悩ませるものか。

そして、それでも「わかろうとする」ことがいかに大切か。

人間の「わからなさ」にひとは一生向き合い続けるのだ。