20240620(2)

「成長したい」という気持ちについて考えてみる。

 

僕はあるときから「成長したい」と思うことが怖くなった。大学に入って初めて挫折を経験してからだ。アカデミアの人たちに圧倒されて学問の道を諦めたころ。自分の寂しさを埋めるために「サークル退会者の会」を立ち上げて、そしたら、こういう場を作ってくれてありがとうって感謝されて、それからだった。

 

もし「成長」を本気で目指そうと思ったら、「成長した人」「努力した人」「成功者」を心の底から肯定しないといけない。それには「がんばれなかった人」「能力のない人」への侮蔑が自然と伴う。僕はその二つを切り分けられるほど器用じゃない。

 

いろんな「だめ連」的なコミュニティに入って回って自分にはどうにもこっちの水があってると感じた。僕は競争に負けるということが昔から本当に悔しかった。「成長」をすべてとして生きたら、耐えられないほどの悔しさを背負うことになる。どこかで競争に負けることになるからだ。その先には悔しさ以外に何も残らない。

 

でも、「がんばれなかったこと」「成長しないこと」を受け入れてくれる場所があれば、競争に負けることの底知れない苦しさをなんとか癒して生き残っていける。そしてそういう場では心からの慰めが得られたりする。会社で聞かれるのは「成長する」ということが前提の慰めだ。"成長"から切り離された価値はなかなか認めてもらえない。

 

僕は自分のそういうところをいろんな人にいっぱい認めてもらえて嬉しかったから、自分も人のそういういいところを見つけて認めてあげられる目を持ち続けたいと思ってる。だから「成長するのが正しい」なんてどうしても思えない。この僕のプライドにかけて、それを肯定するわけにはいかない。

 

でも結局は仕事ができるようにならないといけないわけで、結局、「成長」規範から距離を取りつつやってく方法を考えるしかない。

 

人をみる目を失うことがなによりも怖い。「成長」に思考を乗っ取られたくない。僕は戦う。みんなが生きやすくなるのに力になりたい。メサコンなんだけど、でもこう思う方が「成長したい」よりも何倍もいいと思う。会社は辞めない。僕はまだ、ここにいる。この先もここで戦い続ける。