20231128

五年前の総括

 

漫トロの後輩が5年前の僕のブログに言及していた。

nakanoazusa.hatenablog.com

今読むと非常に恥ずかしいのだが、頑張って再読してみたので、当時のことを振り返ってみる。

 

この文章は大多数の人間が「コミュ障」であるという前提に基づいている(当時もそんなことを考えていたような気がする)。人間を「陰キャコミュ障」と「陽キャコミュ障」の二つに分類し、「陽キャコミュ障」を批判し、自分が定位する「陰キャコミュ障」の生き方を賞賛するという内容になっているようだ。

 

まず、初めの方に、自分が「コミュ力」がないばかりにいかに苦労してきたかが語られている。

 

 小学校以来、僕はずっとコミュ力の低さに悩まされてきた。とりわけ嫌だったのは、僕のようなコミュ障を排除し、馬鹿にする陽キャの存在である。どんなクラスにもたいてい一人はいた彼らは、僕がコミュ障であるとみてとるや、ありとあらゆる手を使って僕をいじめてきた。僕に話しかけ、返答すると無視したりからかったりする、なんてものは軽い方で、ひどい場合だと授業中延々ずっと、僕の悪口をわざわざ僕に聞こえるような声で喋り続けるなんてのもあった。

 とりわけ、僕にとってつらかったのは、彼らがたいていは集団の中心にいて、その集団内で大切にされているように見えたことだった。

 どうしてあんなやつに友人がたくさんいるんだろう?もしかして僕は世間一般の人から侮蔑されて当然の人間以下の存在なのではないか?

 

そんなこともあったねえ。授業中ずっと悪口を言われ続けたりしたのは高校一年のときの話だ。そうそう、このときのストレスが大きな原因になって鬱になったんだっけ。僕は今もセルトラリンという抗うつ薬を3錠毎日飲んでいる。

 

そして高3になって今まで遠ざけてきた陽キャっぽい人たちと喋ることで僕は自分からみてクラスの中で権勢を誇っていたようにみえたそいつがめちゃくちゃ嫌われていることに気づいたんだった。

 

 さて、以上に述べたように僕はあの種の陽キャに大変苦しめられた人生を送ってきたが、鬱を克服し、今まで顔に「×」をつけてきた人間と接してみたところ、僕の想像とは全く別の事実が浮かび上がってきた。単刀直入に言おう。彼らあの種の陽キャは大変嫌われていたのである。それも一人だけではない。複数の人から悪口を聞いた。というか僕が聞く誰かに対する悪口は、たいてい彼らのようなタイプの人間に対するものだったのだ。

 僕は今まで、彼らは集団に適応に成功しているコミュ力の高い人間で僕よりも周囲から尊重されている人間なのかと思っていた。ところが、彼らの悪口をいう人からすれば、彼らこそが周囲の意向を尊重しない(=コミュ力のない)人間なのであって、僕は全然マシだということである。僕も今でこそ当然のことだと思っているが、当時の僕は彼らが周囲にそのように思われているという事実は、人生観がひっくり返るほどの衝撃であった。

 

予備校も転機だったな。予備校のクラスには他の高校から来た僕ら以上に陽キャな人たちがいて、僕らは同じ高校で固まることになったんだよな。それで陽キャっぽいかつてのクラスメイトとかなり密なコミュニケーションを取ることになった。話してみると意外と僕のことを受け入れてくれて、自分でも人に認められるんだと嬉しくなったんだ。こんな気持ち、ずいぶんと長いこと忘れていた。もともと、人に認められることに、僕は慣れていなかった。

 

あ、なんか思い出してきたぞ。予備校で初めて女の人と接することになったんだった。当時は女の人というだけですごく魅力的にみえていた。授業中に隣の席の女子とふざけあったりしたの今でも覚えているからなあ。全然話も合わなかったし、僕にとって重要な人間には決してなりえないような人だったのだが、女の人というだけで特別な価値を感じていた。

思い出した! クラスで一番かわいいと当時思っていた女子と高校の同期が一緒に登校していたのをみたときは嫉妬してたんだよ。今考えると何が羨ましかったのか全くわからない。顔さえよければ誰でもいいのなら、別に一緒に並んで歩くくらいの関係には簡単になれるだろ、と今は思うのだが、当時はそんなことすらわからなかった。

そういえば昨日、男子校出身の友人に「僕らは男子校に居場所があったけど、ちろきしんさんはなかったんですよね? 僕らはあまり恋愛にこだわりないんですけど、ちろきしんさんが恋愛にこだわってるのって、男子校で居場所を作れなかったからじゃないですか?」と言われた。面白い指摘だと思った。予備校時代から今に至るまでめっちゃ発情してたのって、承認の欲求が恋愛への欲求に転化してたのかもな。

 

さて、話を戻すと、僕は「陰キャコミュ障」と「陽キャコミュ障」を次のように定義している。

 

 集団でのコミュニケーションでは一種の支配関係が働いている。『空気』を作る人間が『空気』を読む人間を同調圧力によって支配する関係である。通常の対等なコミュニケーションでは、『空気』を作る役と『空気』を読む役をお互いに交代しながら会話は進んでいく。『空気』を読む能力も、『空気』を作る能力もないせいで、この輪に入れない人が陰キャコミュ障と言えるだろう。

 

 多くの場合、自分にコミュ力があると誤解している人間である。今までグループの中心で活動していた人が多く、自らグループ内の『空気』を作ることに長けている。集団で活動することを好み、「空気を読む」ことを最重要視し、「空気の読めない人間」をコミュ障と呼んで非難する人間が典型的である。また、彼らは『空気』を作れるがゆえに周りからも「空気の読める人間」と誤解されている場合がある。むしろ自分もそう思っているからこそ集団になじめない自分とは異質な人間を「空気が読めない」と呼んで非難するのである。

 では、なぜ彼らは陽キャ”コミュ障”なのか。

 それは彼らが往々にして周囲に配慮することができないからである。先に述べた通り、通常の対等なコミュニケーションでは、『空気』を作る役は周囲の意向に応じて交代しないといけない。ところが、彼らは、周囲の意向がわからないか、配慮する気がないかいずれかの理由で、みずからの『空気』を作る役を他者に渡そうとしない。その上で彼らは、自らが作る『空気』についていけない人間に対して歩み寄ろうともせずに非難するのである。

 

陽キャコミュ障」というのはようは、集団の中で中心にいる人たちのことなのだが、彼らに対する憎しみと集団の中で周縁化されていることへの恨みがあふれる文章になっている。

この文章を書いた当時、僕には二つのコミュニティがあった。

惰性で入っていたランニングサークルと高校同期のコミュニティである。

ランニングサークルでは週二回、鴨川を走った後、「アフター」と称して生協の食堂でご飯を食べる。僕はそこであまりにも馴染めないがために黙って二時間を過ごすのを繰り返していた。当時僕は友達と徹夜で麻雀をするようなことに憧れていて、麻雀をやる人たちの仲間に入れて欲しかったのだが、彼らのアッパー系のノリにはどうにもついていけなくてやんわりと排除され、おとなしいグループに属していた。そこでも話が合わず、たとえ僕が何か話したとしても彼らの望むような会話ではなかったようで、僕は認められることもなくでも他に居場所もなくて、ただそこでずっと過ごしていたのだった。彼らにどうやったら認められるかばかり考えて、全然うまくいかなくて、心が限界になって行かなくなったんだった。

そうそう、「陽キャコミュ障」への恨みは当時の高校同期たちとの関係も反映してたんだった。以上のように大学に居場所のない僕にとって唯一まともな友達は高校同期たちだけだったのだが、彼らとの関係も当時は不満が多かった。テニサーのノリを押し付けてきて飲み会のコールをさせられたりね。他のやつが乗っかってるのも嫌だった。今思えばあいつも若かったんだろうけどね。今では別に普通に友達だけど、当時は彼らに依存していたから辛かった。

 

 よく、お酒に弱い人のほうがアルコール依存症になりにくいから望ましいという話を聞くが、それと同様に、集団が苦手な人(=陰キャ)のほうが、集団での人間関係に依存しにくいから望ましいという考えも成立するのではないだろうか。

 

ああ、ここは飲み会のノリ押し付けてきた高校同期への恨みで書いた文章だな。

 

ここにみるようにこの文章では集団でのコミュニケーションが個々の人間を疎外する地獄なのだという前提が置かれている。だから、アルコールに弱い人が依存症リスクを回避するのと似た論理で、「陰キャコミュ障」であることの価値はその地獄を回避できることに置かれている。一対一の関係を綿密に築けることこそが大事なのだという結論になる。

 

じゃあ、その後今に至るまでの五年間の僕の人生はどうなったのかといえば、今やあのとき憎んでいた完全に集団の空気を作る「陽キャコミュ障」となり、「陰キャコミュ障」たちを排除する側に回ってしまっている! 僕が中心的な役割を果たしていたコミュニティに馴染めなくて出ていった人、今までも何人もいたよ。僕はうまく配慮できなくて、彼らをすくいあげることができなかった。

 

この文章では一対一の関係が大事だという結論になっているが、今の僕はむしろ一対一の関係に閉じることには強く警戒してしまう。どこかで他者に対して開く関係にしないといけないと思うし、結局なんらかの形で所属集団に認められるというのは大事なのだろう。相互に認めあえる集団をどうやって作るかはいつも気にするな。もちろん、大事な他者と一対一で密なコミュニケーションを取るのってすごい楽しいし、貴重なんだけど。

 

あのとき、ただただ、自分を認めてくれる人間関係が欲しかった。その気持ちを僕は忘れつつある。他者と繋がれない苦しさなんてもう四年くらい味わってないんじゃないかな。今の人間関係に何の不満もない。むしろ外に開かれた関係を維持するためのコスト(サークルや同人誌の活動も究極的に言えばそうだ)に日々苦しめられている。本当は重要な他者との関係だけに閉じて生きていたいが、彼ら彼女らとの関係のためにも広い関係を維持しないと、と思っている。

 

今回読み返して、今とは全然違う忘れていた自分に出会えた気がしてよかったが、自分に刺されるというのはあまり気分のいいものではない。これくらい考え変わることってこれから先あるのかな。