「コミュニケーション志向型」と「アイデンティティ志向型」
最近の「オタク」の何がムカつくかという話をしていたので整理する。
大きく分けてオタク(何らかのコンテンツの消費者と言い換えても良いだろう)のあり方にはアイデンティティ志向型とコミュニケーション志向型の二つがある。
アイデンティティ志向型は作品の消費のあり方がその人のアイデンティティと深く結びついているあり方だ。アイデンティティ志向型の人は作品とその人のその人生でなければありえない仕方で関わっている。その人固有のフィルターを介して解釈された作品は、その人のアイデンティティや人生に影響を与えていく。
コミュニケーション志向型の人にとって、作品はあくまで他者とのコミュニケーションの媒介物に過ぎない。媒介物として機能しさえすれば代替可能なのだ。アイデンティティ志向型の人にとっての作品は消費すること自体が目的になるが、コミュニケーション志向型の人にとっての作品は単なる手段になっている。
私見だが、今どきのアニメ・漫画・ゲームなどの萌え系文化の消費者には、コミュニケーション志向型に寄りすぎている人が多いように思われる。作品が代替可能なものとして扱われることに我慢ができないからだ。作品を代替可能なものとして扱う人はその人も代替可能な人間になっているようにみえる。そういう人は僕に対しても代替可能なモノとして振る舞うことを求めてきそうで引いてしまう。
僕は人と関わる上で、その人と自分でしかありえない仕方で関わることが大事だと信じている。作品についても同じだ。自分でしかありえない仕方で作品について考え、語りたい。そうでなければ意味がない。ただし、ここでいう意味というのは外から見た社会的に地位や能力が上がったという話ではない。自分の内にしかない自分の人生の中で固有にもつ意味だ。
ことわっておくが、この二つの分類は、人をはっきり二つに分類するようなものではない。僕にもコミュニケーション志向型の側面はある。僕が苦手としている人たちにもアイデンティティ志向型の側面がないわけではないだろう。
ではなぜコミュニケーション志向型の「オタク」が増えたのか
最も思いつく理由は「オタク」文化の参入障壁が下がったことだろう。コミュニケーション志向型にとって作品はコミュニケーションを円滑にするための手段に過ぎない。「オタク」文化の蓄積とそれに伴う大衆化が、媒介手段としての使いやすさを高めてしまった。
加えて未婚率の上昇も挙げられる。以前と比べて交際経験がないことが当たり前になり、親密な関係を築く能力を培わなければという社会的なプレッシャーが低下した。だから「陰キャ」でも許されるようになった。「モテ」なくても許されるようになった。そうした「非モテ」で「陰キャ」な人々が増えた結果として、モテない「陰キャ」だけで固まってコミュニケーションを取る場が以前より広く要請されるようになったのである。
コミュニケーション志向型の「オタク」の増加の一因には、そうした場でコミュニケーションの媒介手段として利用するのに便利だったのが「オタク」文化だったからという理由がある、というのが僕の仮説だ。「オタク」文化がもともと持っていた「非モテ」性・「陰キャ」性を彼らはハックしたのではないだろうか。
コミュニケーション志向型というが、彼らは別にコミュニケーションスキルを高めないまま人と関わろうとするからこそ、パッケージ化された「オタク」文化(「ミーム」と呼ばれるものを想像すればよい)を媒介に使うのだ。借り物で自分を作っている代替可能な存在なのだから、人を惹きつける魅力もなく、ただただコミュニティの周縁を漂っているだけの存在になる(これは高校の時僕もストパン界隈でそんな感じだったからわかる!)。そういうことが許される時代になってきているんだと思うが、文化にしろ、コミュニケーションにしろ何かに真剣に向き合っている人の方が僕は好きだ。
では「オタク」文化大衆化以前の「オタク」がどこに行ったのか、仮説を立ててみる。アイデンティティ志向型の「オタク」と「オタク文化」以外には居場所のなかったコミュニケーション志向型の「オタク」、この二つに分けて考える。前者のアイデンティティ志向型のオタクは、今の時代、おそらく普通に友達にも恵まれてモテている。多少「陰キャ」ではありつつも、「陰キャ」であることに寛容になった現代では大したデメリットにならないだろう。それにそうしたあり方を魅力に感じる人も増えているだろうし、ネットの大衆化でそんな人たちと繋がりやすくもなっている。どこかの場所でちゃんと受け入れられてコミュニケーションの経験を着実に積んでいるはずだ。
一方で後者のコミュニケーション志向型の「オタク」はどうか。彼らはおそらく「チー牛」と呼ばれる存在になっているだろう。元々、今コミュニケーション志向型のオタクのマジョリティになっているような層の連中にすら馴染めなかったのだから、今ではもっと難しいだろう。
「チー牛」のように生まれつきハンディを背負っている人間や、そもそもその日をやり過ごすことで精一杯な人間はそもそもその頑張りの中にその人なりの魅力が出るから僕は好きだ。僕がムカつくのは十分に資源があるにも関わらず借り物で自分を着飾って代替可能な存在に甘んじている連中だ。そいつらが文化も世の中も下らなくしているように見える。
「お前の昔のオタク像は間違っている」と思った方へ調査協力のお願い
今、ゼロ年代研究会で「検証――葉鍵全盛期」と題して2000年後の美少女ゲーム受容について調べています。
昔のオタクについて決めつけるような話をいっぱいしましたが、僕の仮説が本当かどうか確かめるためにもこの調査を進めています。まだ明確にマイノリティだった頃の「オタク」がどんな人たちか本当のところを知りたいですし、知らなければ当時の「オタク」について語れないとも思っています。ぜひ調査にご協力お願いします。
人間失格感
以前、交際経験がないことで人間失格感を感じたことはないと言ったが、「オタク」文化にしか真剣に触れてこなかったことには人間失格感を感じているかも。「オタク」文化ってやっぱりミソジニー的でキモいわけで、そういう人間にしか見られないんじゃないかって。
中日ドラゴンズ
2回の龍空、仲地の前で石橋にバントさせたのありえないだろ。不快な采配しかしないなホント。まあ、ベイスターズも次の回に同じことしてたけど。
チームが崩壊するってこういうことなんだな。こんなこと今までなかった気がする。2010年代と違ってドラフト戦略が失敗しているわけでもないと思うんだけど。