『彼氏彼女の事情』をようやく見終わった。
24話Aパートと最終26話はとんでもなかった。
本当は誰でも心の底で僕を拒絶している、
僕に悪意を持っているという意識だった。
最初にそれを和らげてくれたのは今の両親。
それでも僕にとって人に嫌われるということはそれを想像するだけでも恐怖だった。
だから誰からも嫌われることがないように、
誰からも蔑まれることのないようにしてきたんだ。
気がつけば優等生と呼ばれていた僕も、
元をただせば自分が傷つくのを怖れて他人と深く関わるのを拒んだ、
その結果のことでしかなかったんだ。
そうだ。僕も人に嫌われるのが怖かった。どんな相手であれ誰かに嫌われるということが本当に怖ろしくて怖ろしくて仕方がなかった。どうしてか、と言われるとよくわからない。原始的な恐怖としかいいようがない。
だからなるべく嫌われないように振舞ってきた。ただ、僕は有馬と違って優等生を演じるのは向いていない。僕は道化を演じるという戦略をとってきた。こんな文章を書いているのも、その結果に過ぎない。
そう、すべて自分の醜さから始まったんだ。だから、どこまでいっても自分を許せない。有馬の気持ち、僕にはよくわかる。
有馬。
私、思うんだけど、自分で自分のことどうこう言うのって、あんまり当てにならないよ。
今の自分がどうしてこうなったかなんて、きっとそんな簡単に言葉にできることじゃない。
気づいてないだけで、きっと自分が思っている以上にいろんなものから影響を受けて有馬は有馬になったんだよ。
考えることなんてそのときの気分で結構変わるもんだし。
真面目な有馬も、私、好きだし……。
こういう話に触れるとそうだよな、といつもなら納得する。そうして感動したと言って人に触れ回ってそれで終わり。俺は有馬だったんだ!って。
でも。
この言葉は僕に向けたものじゃない。
僕は有馬じゃないし、宮沢は僕のことなんか見ていない。
いろんなものに影響を受けて変わっていくことの尊さを宮沢は有馬に説いた。有馬に一番影響を与えたのは……。
有馬と宮沢の間に僕はいない。世界には有馬と宮沢がたくさんいる。人と深く触れ合って変わっていく彼氏彼女たち。
いつもなら、「そこに僕はいない」とでも続けていただろうが、僕にもそんな瞬間があったのを思い出す。
終盤はずっと文化祭で芝居をやる話をしていた『彼氏彼女の事情』だが、最終26話では芝居の場面は描かれない。十波と有馬、雪野の内面に描写が集中する。芝居を成功させることじゃなくて、芝居をやろうと思った雪野の内面の変化こそが重要なんだということなんだろう。
そう考えたら、僕も救われるような気がした。何の成果も出せない、努力のできない僕も、価値があるような気がした。