20240815

社会について考えたければまず労働について考えなければならないと思って就職した僕だが(それはタテマエで本当は院でやっていける自信がなかったから)、実際に会社組織の中に入ってみて考えが変わったところはいろいろある。

 

まず、ある程度しっかりした会社組織は、居場所としてしっかり機能している。上の立場の人間は組織がどうしたら居やすい場になるか真面目に考え先人が蓄積してきた知識を学び、試行錯誤してよりよくあろうとしている。もちろん"生産性"というものを一番大事にしているのだけど、帰属意識や集団への愛着が"生産性"と深くかかわっているだけに真剣だ。

 

大学時代、ときたま、「党」でないと何かを成し遂げることはできないといって、「入党」する人がいた。僕なんかはあまり活動に熱心ではなかったから真剣に考えるとそうなることもあるのだなあとどこか他人事のように見ていた。そして今振り返る。「入党」したいかどうか。

 

もちろん僕だって「党」のやろうとしていたことは立派なことだと思う(もちろんいつものお題目は立派だが…という話になるが)。うーんでも、やっぱり「入党」はありえないかな。偉そうな物言いになるが、包摂する力という点では僕の会社に一ミリも勝ってないよ。もちろん経済的理由は排除できないけど、それを考えてもありえない。会社が組織への帰属を重視するのは"生産性"が理由だけど、"革命"だって組織への帰属は大事だし、重視しない理由はない。

 

ところがどうにもそこを考えているようにはみえなかった。いや、これは「党」だけの問題じゃなくて「左翼」全体の問題だと僕は思う。

 

もっと進んでいえば「動員力」とでもいうもので大きな差があると思った。

 

もっと邪悪に"社員"から搾取してやろうって考えてる会社はいっぱいあると思う。でも彼らの方は彼らの方で真剣に社員のリソースをどう動員するかを真剣に考えてるはず。そこを徹底できてるかと言われると、やっぱり左翼は怪しい。

 

だんだんと日本社会が「会社」と「家族」の二つの組織が大きくて、「組合」や「党」が入り込む隙はないという諦念が芽生えてきた。どうしてこうなったのかというのはやはり資本主義だ。資本の自己増殖に魅入られた人が作り出すパワーは大きい。力のあるものにとって社会を変えるより金を儲ける方が遥かにたやすい。生きている人間のリソースが実はほとんどそっちに吸い取られているということに僕は今の今まで気が付かなかった。

 

でも苦しい生活から這い上がれない人もたくさんいて、力のある人はその人たちと団結しようなんて考えないで、結局、本当に苦しい人はずっとマイノリティとして周縁に追いやられたまま、多数派の力を持っている人たちは資本の力に目がくらんで斬り捨てようとしている。なんとかしようって人なんて少数だから、「動員力」では比べることも馬鹿馬鹿しいような差が付けられている。

 

「動員力」のパイのほとんどを占めているのが「会社」と「家族」。ま、今は「家族」のパイは小さくなっているかもしれないけど。「動員」のことを真剣に考えているのは「会社」のお偉いさんがほとんどじゃないかな。そりゃ資本主義と戦おうなんて思想が生き残るわけがない。多くの人にとっては自明なことかもしれないけど、僕は今更になってそれを実感したよ。

 

欧米と比べて日本は企業が福祉を担ってきた、なんて大学の授業では教えてもらったけど、なるほどこういうことかと納得する。福祉を担うことが「動員力」に繋がり"生産性"に繋がる。そういう環境が日本にはあったということらしい。会社が自分の帰属意識の中心にあるということが身近な場で過ごさないと実感できなかった。構成員の居心地のよさにこんなに気を遣っている組織、見たことなかったもん。もちろんそんなところばかりじゃないだろうけど。裏返せば苦しい思いをしている人というのはそういう「会社」から切り離された人なのだろうということも想像がつく。

 

結局、「会社」全体の福祉の水準を上げることが日本社会で今からなるべく平等な社会を作ろうって思うなら一番やりやすい道なんじゃないか、と思う。もちろんやりやすいって話で、利潤が目的の「会社」組織なんて信用ならないし、もし本当にそんな社会が実現したとして、そこからも排除された人が出てくるのは火をみるより明らかだ。結局、僕なんかが考えてもわからない問題だよね。