サークル退会者の自分語り

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夜と霧と阿知賀編

 

 

  はじめに(注意点)

 

 文章の終わりに、追記「Aブロック準決勝先鋒戦は収容所のメタファーか?」を加えました。阿知賀編に関しては、追記の方が本編より重要なことを書いていますので、ぜひ追記も読んでください。

 

 1,将来への不安

 

 ラーメン屋に並ぶ。今日は何ら価値のない1日だった。昨日の夜から睡眠を挟んでずっとゲーム。大学をサボった罪悪感と体の倦怠感。陰鬱とした気分を少しでも晴らそうと大好きなラーメンを食べに来た。僕の後ろでは、自分より少し年長の二人が、久しぶりに再会したのだろうか、身の上話に花を咲かせている。明るい様子を取り繕っているが、話している内容は暗い。ゆっくりと絶望に沈んでいくような将来への不安が彼の息の隙間から溢れ出している。彼の心労は、前にいる僕にも伝染した。

 

 僕は現在大学生だが、定職に就ける自信が全くない。まず、8時間以上にもなる長い間、平日は毎日決まった時間に仕事をするということができる気がしない。僕はメンタルが弱く、気苦労が溜まるとすぐ抑うつ状態になって大学に行けなくなってしまう。最低でも週40時間なんて、ぞっとするような長い時間働くなんて、精神が保つはずがない。加えて、チームワークというものが恐ろしく苦手だ。高校の時の文化祭では、自分が何をやるべきなのか全く理解できず、邪魔者扱いされた記憶しかない。これは職種にもよるだろうが、多かれ少なかれオフィスでも、同様のことが起きるだろう(発達障害じゃないの?と思われるかもしれないが、実際、最近ASDの診断を受けた) 。上司や同僚の苛立ちと蔑んだ目。これまで見ないようにしてきた不安が、後ろの二人の会話によって一気に解き放たれる。ストレスを発散しに来たはずだったのに、酷く陰鬱な気分になってしまったのだった。

 

 帰宅。美味しいラーメンを食べている間には忘れられた将来への不安が家に帰ってからからぶり返す。底の見えない、どこまでも下へ下へと落ちていくような絶望感。動悸を感じ、息をするのが苦しくなる。次第に、最近はおとなしくしていたはずの希死念慮も現れる。何もしないでいてはとても耐えられないので、スマホを開き、ここのところハマっているバックギャモンを始めたのだった。

 

 

 2,『咲-Saki-阿知賀編 episode of side-A

 

 約6時間、僕はバックギャモンをやり続けた。途中からずっと終わらせようと念じていたが、僕の薄弱な意思の力では止めることができなかったのだった。我に返った僕は、Fire TV Stickでdアニメストアを開く。どうしても辛くなった時に見るアニメがあるのだ。

 

 咲-Saki-阿知賀編 episode of side-Aである。(以下阿知賀編)あらすじの説明は省くので、知らない人は検索エンジンを駆使して調べて欲しい。

 

 画面に映るのは、Aブロック準決勝先鋒戦の最終盤、千里山女子の先鋒、園城寺怜が、最強の敵、宮永照を前に、危険を冒して三巡先を見ようとするシーンだ。 照は怜の力量では勝つことが困難な相手だ。力を使いきり朦朧とする意識の中で、怜は心中呟く。

 

「生きるんて辛いなあ」

 

 しかし、それでも怜は抵抗をやめない。命を削るような負荷がかかる能力を使ってまで照に立ち向かっていく。怜を支えているのは大切な仲間への思いだった。「ここから先は、みんながくれた一巡先や」というセリフがその思いを象徴している。怜の決死のプレーにより、松実玄の倍満が照に直撃、長い先鋒戦は幕を閉じることになるのだった。*1

 

 僕はいつも思うのだが、照に追い詰められたこの状況は、どうにもならない現実の象徴ではないだろうか。この最終盤での怜の姿は辛い現実に抗おうとしてボロボロになった我々の姿である。 僕は生きるのが辛い。それでも自殺せずにいるのは、僕が死んだら悲しむ人がいるからに過ぎない。元より、生きててよかったと思えるような未来を期待することはできない。怜も結局は照に勝つことはないのだ。せいぜい、玄をアシストして、一矢報いた程度である。

 

 

 3,フランクル『夜と霧』

 

 フランクルは『夜と霧』で、こう書いた。

 

「わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ」(みすず書房の新板、池田香代子訳)

 

 ここには、フランクルが、ナチス強制収容所体験で得た、辛い現実との向き合い方が凝縮されている。阿知賀編を見ていて思い出した言葉だが、どういった文脈で語られたのか、ここで説明したい。

 

 フランクルユダヤ人で、ナチスユダヤ人虐殺の生き残りだ。『夜と霧』では、まず、ナチス強制収容所という極限の状況下で、被収容者の精神にどのような影響が出たのかを分析している。収容された直後の段階、収容所生活の段階、解放後の段階と三つの段階を説明しているが、重要なのは二つ目の収容所生活の段階である。

 

 被収容者の第一の特徴は、感情の消失である。強制収容所の内部は、飢餓・暴力・重労働・死が日常化した世界だ。生き残ることに全関心が集中し、監視者の暴力や仲間の死に全く感情を抱かなくなる。環境に適応するための自己保存プログラムだとフランクルは言う。加えて、厳しい外的な状況から目を背けるために、内面への没入が始まる。豊かな内的世界の保持は生き残る上で非常に重要であって、いかに強靱な内的なよりどころを持つかは収容者の運命を大きく左右した。個人の命の価値がとことん貶められる収容所生活では、自我が無価値に思え、主体性の自覚が消失する。解放される見通しが全く立たない中で、希望を打ち砕かれ、やがて目的をもって生きることができなくなる。未来への希望の喪失は、現実をまるごと無価値なものに貶めることに繋がり、やがては自己放棄に至る。死にゆく被収容者はこう口にする。

 

「生きていることになんにも希望が持てない」

 

 これに応えようとしたのが、最初に挙げたフランクルの有名な言葉であった。

 

 生きることは我々に何を期待しているのだろうか。フランクルは、我々が常に生きることが各人に課す責務の前に立っていると言う。この責務は、人により、時間ごとに変化する、一人だけに一回きり与えられるものだ。常に具体的で、同じ状況に置かれていても、各人ごとに異なっている。自分だけ、一回きりの変更不能な現実に対してどういう態度を取るかということに責務があるというのがフランクルの主張である。

 

 ここで阿知賀編の話に戻ろう。

 

 準決勝先鋒戦終盤、花田煌は、絶望的な状況下でチームが勝ち上がるために何をすべきか考え、迷ったのち、こう発言する。

 

 「その時私が二位で終わる確率とみんなが巻き返して二位以上になる確率…それを計算して比較できるほど私の頭はよくない。でも一つだけ、わかっていることがある。自分が納得できる方!誰もトバさせない。」

 

 フランクル式に言えば、ここで花田に与えられている「生きることの課題」は、「絶望的な試合展開でどう振る舞うか」ということだ。その背景には必要としてくれる仲間への思いがある。フランクルは、たった一度しかない状況で問われた課題に対し、そのたびごとにたった一つの答えだけを受け入れると、説明しているが、花田の選択とよく重なるものがある。

 

 フランクルは、苦しみを責務として引き受けることの重要性を強調する。各人の苦しみは、誰も取り除いたり、身代わりになることのできない、自分だけの苦しみだ。先に挙げた怜の言葉に象徴されるような「生きる辛さ」は、誰もが他人とは違う唯一無二の形で持っている責務なのである。自分だけの苦しみと真っ向から向き合い、引き受けることが、自分のかけがえのなさを自覚し、自分だけの人生を切り開く力になる。

 

 怜の苦しみは、チームのために勝たなければならない状況で、宮永照にどうあがいても勝てないことにあった。自分の力量が及ばない苦しみの中で、怜はその苦しみを受け入れつつ、それでも全身全霊を賭けた決死のプレーで立ち向かっていく。怜が諦めなかったのは、自分の苦しみを受け入れることができたからである。及ばない苦しみに正面から向き合ったからこそ、責務に対する「照に一矢報いる」という自分の答えにたどり着き、必死の抵抗が可能になったのだ。*2

 

 フランクルが他に重視しているのは、よりどころの存在である。彼が例に挙げているのは愛する人とやりたいことの存在だ。各人の愛する人ややりたいことへの思いは、これもかけがえのないものであり、自分のような仕方で愛する・やりたいことをやるといった行為は、自分以外にはできないことだ。フランクルは言う。「自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない」と。

 

 阿知賀編で怜や花田が見せた抵抗の背景には、自分を必要としてくれる仲間の存在があった。彼女らは、愛する仲間に対する責務を自覚していたからこそ、どんなに絶望的な状況でも試合を放棄しない。

 

 また、好きな麻雀に対する責務も感じているはずだ。先鋒戦序盤、予想以上に強い照に一方的にやられ、諦めかけた怜は、こんな言葉を自分に言い聞かせて立ち直っている。

 

 「義務や目標は思いけど、せめてあの頃のように打ちたい!」

 

 これもフランクルのいう責務の意識化の一例だろう。怜は麻雀への愛を意識化することで、自分のプレーの支えにしている。自分が麻雀を愛するに値する人間であろうとするのだ。
 
 

 こうして書いてみると、阿知賀編がいかに『夜と霧』と適合した話であるかということに驚かされる。僕が初めて阿知賀編を見たのは、浪人中の受験直前期だ。大学合格への熱意を失い、勉強に身が入らない日が続く日々。今日と同じような将来への不安に押しつぶされながら、早く試験が終わることだけを願っていた。フランクルが指摘した、「目下のありようを真摯に受け止めず、非本来的な何かなのだと高をくくる」被収容者の性格類型はこのときの僕に丸ごと当てはまっていたのだ。

 

 なんとなく見始めた阿知賀編。仲間のため、自分のために現実に抵抗する怜の姿は、僕の心を激しく打った。自分のあるべき姿がそこに映っていたからである。それ以来、僕は持てる力を振り絞って受験勉強に取り組んだ。京大を受けると宣言して浪人した以上、両親と自分に対して責務があると考えたからである。実を言うと、『夜と霧』はこの文章に引用するために初めて読んだのだが、フランクルが描き出す被収容者の精神状態が、受験直前期の僕とあまりにも似通っていて驚きを禁じ得ない。僕が阿知賀編を見て学んだと思っていたことがそのまま言語化されているのだ。

 

 

 4,これからの生活

 

 さて、現在の僕の生活に話を戻そう。
 
 前に述べたことを繰り返すと、僕の苦しみの最たるものは、将来、満足した生活が送れるかという不安である。ざっくりまとめると、今の社会システムに適応できる自信が無いということだ。言語化してみると、実に漠然としている。実際できるかどうかわからないことで、悩んでいるのだ。フランクルは、被収容者を「無期限の暫定的存在」と定義した。苦痛の多い暫定的な状態がいつ終わるか見通しがつかない人間を指している。僕も、自分が完全に独り立ちしたと確信できるようになるまで、いつまでかかるかわからないという意味でこの定義に当てはまる。

 

 ここまでの話を踏まえて僕がやるべきことは、遠い将来への不安に押しつぶされるのではなく、まず、目の前の苦しい責務と向き合うことではないだろうか。授業に出る・サークル等の仕事をこなす・専攻についての知識を深める、などといったことだ。次に、自分のやりたいことに真摯であること。好きという気持ちを忘れないように取り組むのだ。たとえば、僕はこうして文章を書くのが好きである。自分の考えが整理され、自らの中に新しい発想が生まれるのが心地いいのだ。だが、僕は自分の書く文章に自信があるわけではない。しかしだからこそ、行為にもかけがえのなさが宿るというフランクルの思想に勇気づけられたのだった。自分にしか伝えられないことがあるのだから。

 

 フランクルは、どんなに過酷な環境であっても、人間に精神の自由が存在することを訴えた。人間に自由意志があるのか、そのことは科学的には証明できない。だが、自分自身の人生を生きるため、主体性の感覚を取り戻すために、僕はあえてフランクルに従いたい。『夜と霧』は、そう信じさせる強い引力を持った名著である。

 

 追記 「Aブロック準決勝先鋒戦は収容所のメタファーか?」

 

 この前、夜と霧と阿知賀編は似ているという話をしていたら、ある人に「収容所のメタファーになってない」との批判をいただいた。その時は、「夜と霧で収容所は重要じゃない」ととっさに下手な反論しか返せなかったのだが、後で思い返してみるとなかなか正鵠を得た批判であって、この辺の説明はこの記事ではしていなかったと思い、追記を書くことにした。

 

 まず、夜と霧で語られる責務の引き受けの思想と収容所体験の関連性について、語らなければならない。本文では、雑にまとめてしまったのだが、『夜と霧』では、まず収容所生活で起きた出来事、フランクル本人が気づいたことが語られた次に、本題に入る前提として、被収容者のありようを定義している。本文でも少し触れたが、「無期限の暫定的存在」というのがそれだ。

 

 一度、フランクルがこの語によって何を言おうとしているのかをまとめよう。

 

 まず、被収容者は、解放後の未来が不確定という意味で、「暫定的存在」である。たとえば、浪人生は、進路が不確定であるため、失業者も、就職先が不確定であるために、暫定的存在ということが出来る。

 

 さらに、フランクルは、「暫定的存在」に「無期限の」という語を追加している。被収容者が、いつ暫定的な状態から解放されるのかわからない、という点を重視したためだ。解放の期限がいつかわからないということは、解放の終わりが来ない可能性があることを意味する。


 解放の期限が明示されていれば、「その期限まで苦しさに耐える」というはっきりした目的ができるだろう。私の受験生時代を振り返ってみても、期限が明確であるというのは強い支えになったのは間違いない。だからこそ、その期限がはっきりしないと、徐々に目的をもって生きることが困難になるのである。

 

 フランクルは、被収容者のありようだけではなく、失業者や療養所の患者にも当てはまると述べているように、この概念は、かなり普遍的に当てはめることができる。私が、夜と霧において、フランクルの体験が「収容所」で起こったということにあまり重要性を置かないのはそのためだ。

 

 さて、表題の話題に移りたい。怜や花田が置かれた状況が、フランクルの収容所体験とどう類似しているか、という問いである。

 

 「無期限の暫定的存在」であるという点において、怜や花田の状況が『夜と霧』の主題に重なる、というのが私の結論だ。

 

 重要なのは、彼女らが戦っているのが、団体戦の準決勝先鋒戦であるということである。

 

 まず第一に、団体戦という点。彼女らは個人の勝利ではなくチームの勝利を目指さなければならない。


 次に、準決勝という点。準決勝の勝利条件は、4校のうち上位2校であることだ。つまり、最強の宮永照を擁する白糸台高校に及ばなくても、他の2校を上回れば、勝ち進むことができる。

 

 最後に、先鋒戦という点。チーム人数は五人で、一人ずつ、五回の試合の合計点数で勝敗を競うことになる。怜たちは、その一番最初の試合であるので、彼女らが、どんなに大差でリードしても誰かをトバさない限り勝利は約束されないし、逆にどんなに差を広げられても、勝利の可能性はあるということになる。

 

 ここで、先鋒戦最終盤、照が他の三者を前に圧倒的にリードしている場面での花田のセリフを再び引用しよう。

 

 「その時私が二位で終わる確率とみんなが巻き返して二位以上になる確率…それを計算して比較できるほど私の頭はよくない。でも一つだけ、わかっていることがある。自分が納得できる方!誰もトバさせない。」

 

 ここでの花田の迷いを解説しよう。

 

 まず、照の連続和了は、三者が協力しないと止まらない。*3つまり、照を止めようとしなければ、誰かがトバされて終わる、ということだ。この時点で三者のうち頭一つ抜けている怜は疲弊しきっており、もし準決勝が先鋒戦で終わったとき、三者のうちのどこのチームが勝ち進められるかは全く不透明だ。

 

 そして、先鋒戦であるが故に、もし三者の協力で、照の連続和了を止めた場合を考えてもまた、どこのチームが勝ち上がるかは不透明である。

 

 つまり、花田が告白するように、どの選択をすれば、自分のチームにとって有利か全くわからない状況なのである。

 

 怜の場合は、もう少し複雑だ。千里山は全国トップクラスの強豪校で、準決勝でも一位通過を狙っている。加えて、回想シーンで描かれているように、怜は照を倒すことを目標にして麻雀を打ってきた。照は、昨年親友のセーラが大敗を喫した相手だったからである。


 加えて、怜には未来視という必殺技がある。これは諸刃の剣で、体への負荷が大きく、二巡先となると、意識を失う危険があり、三巡先ともなると自分の体がどうなるのかがわからない。

 

 怜には花田以上にいくつか選択肢がある。

 

 まず、照を止めるために、体の負荷を考えず、三巡先の未来視を使い、全力で照を止める選択肢。照を止めれば、後続の頑張りで一位で通過できる可能性はあるが、自分の体がどうなるかわからず、死ぬ可能性すらある。

 

 次に、自分の体への負荷を考えつつ、花田たちとの連携をキープして、照の撃破を狙う選択肢。ただし、これは、その前に描写された照の実力を考えると、成功は難しい。


 最後に、照の攻撃の回避に専念する方法。疲労を考えると確実とはいえないが、三位を2万点以上突き放しており、二位で勝ち上がる可能性は十分にある。*4

 

 やはり、どの行動を取るのが正解なのか、全くわからない状況であることには変わりがない。

 

 選択の不確定性は、『夜と霧』においても重要な要素である。フランクルは幾度となく、生きるか死ぬかという選択を切り抜けてきた。実際、病人たちへの愛着から、一見絶滅収容所行きとみられていた病人の被収容者の移送に付き添ったフランクルは、、より楽な環境の収容所にたどり着いて生き延びている。どの選択が正しいかわからないという状況が、被収容者の精神状態に重大な影響を与えていることは簡単に想像が付くだろう。フランクルは、自分が運命のなすがままになっているという圧倒的な感情が、被収容者が自分で何かを決めることにひるんでしまった原因の一つだと述べている。これは、フランクルが「無期限の暫定的存在」として例に挙げた失業者においても当てはまることであるし、先鋒戦の怜や花田の状況にも合致している。こうした環境では、何かを決めるということ自体が難しいのである。

 

 試合の結果が不確定ということに加えて、選択自体の不確定性を考えると、彼女らは、まさにフランクルのいう「暫定的存在」と呼ぶにふさわしい状態なのではないだろうか。

 

 さらに付け加えたいのが、照の連続和了という状況だ。照は最終局の親番で、他の三者が止めない限り、誰かをトバすまで上がり続ける。そう、終わりがいつなのか分からないのだ。『夜と霧』で描かれているように、暫定的なありようの終わりが見えない状態に置かれた収容者は、未来に目的を持って存在することが難しい。彼女らも「無期限の暫定的存在」として同じような状況に置かれているのである。

 

 「暫定的存在」の無期限性(期限の不確定性)は、とりわけ怜においてよく当てはまる。①照が誰かをトバして終わる、②三者の協力で照を止める、という二つのパターンの他に自分が倒れるという第三の終わりを迎える可能性があるからだ。死の危険があるという意味では、被収容者の状況に最も近いのは怜であろう。

 

 実際、怜は目標を見失いかけている。「生きるんて辛いなあ」と呟く箇所がそれだ。このとき、怜の意識は一瞬、試合からは遠のいている。怜はチームの仲間を内的なよりどころとし、自らの責務に対する答えを選び取っていくのだが、その話は本文に書いた。そろそろ、この追記を終わらせることにする。

 

 (特にアニメにおいて)阿知賀編が先鋒戦にフィーチャーしたのは、考えのないことではない。「無期限の暫定的存在」という状態から、どう現実に立ち向かうかを描くためには、先鋒戦でないといけなかったのである。いや、団体戦の先鋒戦というだけではない。二位以上の勝ち上がり・照の連続和了・怜の能力の危険な副作用、これらのうち、どの要素が欠けても、私の愛する阿知賀編にはならなかった。よく出来た話だとつくづく感心してしまう。

 

 「無期限の暫定的存在」となる状況は、決して収容所の中で起こるものではなく、身近なところにも可能性として転がっている。本文でも触れた通り、私の今の状況もそれに近いと私は考えている。私の共感は、はたから見たら思い込みかもしれない。だが、『夜と霧』が広範な支持を得たのは、フランクルの体験の持つ普遍性が共感を呼んだのではないかと思うのである。

*1:詳しくはいろいろな考察サイトがあるので見て欲しい。アニメではまるで玄を助けたかのように見えるが、実際のところ、怜は三巡先の未来視によって、玄の三倍満ツモを阻止し、照に和了り牌を掴ませている。あの状況下で玄の和了を無理矢理阻止すれば、自分は和了れず、照の親ハネ和了の可能性が高かった上、試合が続けば、極度に消耗していた怜に直撃を回避することができる保証はなかった。

*2:実際はそんなに単純ではないだろうけど、アニメではそう見える描き方をしている。

*3:最終局のシーンを見なければそう見えるのでこうは書いたが、協力がなかったとしてもオーラスで玄は上がっている

*4:三巡先の未来視を使った後ともなると状況が異なる。疲労によるリスクが上昇し、未来視が使えない可能性が高くなってしまう